○孫娘の不登校
孫娘の不登校で困っていたところ、愛善歌壇(『愛善世界』十月号)の短歌が目についた。
「思春期のこむずかしきに疲れたる吾に添ひ呉れる愛犬もなかは 京都 竹庭小菜」
この歌の「もなかは」は古語だろうか、どういう意味だろうかと思っていたところ、犬の名前だと教えてもらった。しかも、「もなか」はお孫さんらの名前から取ったものとのこと。私と同様、お孫さんのことで困っておられるようである。
私も孫娘の歌を、十月初め愛善歌壇に送った。
「学校に行かない行けない孫娘明日はじいじが守りしてやろうか」
小学校の先生や友人などにも相談しているが、孫娘は小学校に行ったり行かなかったりしている。ひきこもりにしたくないので、休んだ日、広島に日本画を見せに行ったこともある。
ところでこの孫娘、不思議な力も持っているようだ。三年前、お雛様の前で写真を撮った時、孫娘に向けて光の粒がさっと集まり、写真にも写った。孫娘の祖母、つまり私の妻も、杖立温泉でスプーンを曲げたり、熱田神宮で草薙の剣の威徳に感じて、足の痛みが治ったりしている(『愛善世界』令和元年八月号「お父さん、足の痛いのが治った」)が、その血をひいているのか。また、光の粒が見えた私も私だが。
○気苦労ありての御用
なお開祖の御霊の稚姫君命が、わが子の身の上に苦しまれていることが、道の栞にある。
「稚姫君命の罪いと深くして…かぎりなき心に苦しみありて、わが子の身の上につきて、心をくだく身魂となれり」(『道の栞』明治三十七年十月三十日)
そのご苦労が具体的に、出口聖師が書かれた「大本の活歴史」(『愛善世界』平成三十年十月号~三十一年一月号)の中にある。
なお開祖には八人の子があった。長女ヨネ子が博徒大槻鹿蔵に奪取された後に発狂。三男伝吉も大槻の養子。長男竹蔵の自殺未遂と十七年間の失踪。次男清吉の近衛隊への入営。次女琴子の嫁ぎ。三女久子の嫁ぎと発狂。しかし、なお開祖は泰然自若とし、屈することはなかった。
ところが、牢獄の身が、四女龍子と末子澄子の苦悩を増すとして、なお開祖は自殺を図られた。しかし、大神の厳訓を受け、その愚かさを悟られている。
なお開祖のみでなく、我々も気苦労などの苦労がないと、誠の御用ができないとある。
「初発は肉体の苦労、肉体の苦労が済みたら気苦労があるぞよ…良い御用を致す身魂程苦労致さな、苦労無しの事は、誠の事は出来は致さんぞよ」 (『大本神諭』大正四年旧七月十二日)
また、御用が、昔からの霊魂の罪咎の帳消しになるともある。
「昔からの霊魂の罪咎が在るから、今度の御用は苦労の固りで、昔からの霊魂の帳消しを致して、水晶の元の霊魂にいたして、お役に立るのである…筆先を十分腹の中へ〆込み」(『大本神諭』大正五年旧二月三日)
○ミロク様のご艱難(かんなん)
なお開祖にご苦労させたのは、ミロク様である。
「ミロク様が苦労致す身魂に、こしらへて…変性男子の御魂に致して、是程長い艱難を今に命て」(『大本神諭』大正五年旧三月二十八日)
また、地の世界を創造されたミロク様のご苦労が、大本神諭に示してある。ミロク様が泥海の中でおできになって、地の世界を創造されたとある。
「昔の根本の初りのミロク様が此の世の御先祖様…斯世の御先祖さまが、地の泥海の中に御出来なされたなり、霊能大神どのも同じ泥海の中で御出来為された…地の世界を創造なさるまでの、独身での永い御艱難」(『大本神諭』大正五年旧五月十四日)
実はこれと同じ内容が伊都能売神諭にもある。さらに詳しく述べてある。ミロクの大神は蛇体で青水晶色だとある。
「この地の世界の初りは世界一体に泥海…其泥の世界に身の丈は五百丈ばかり…蛇体の…五六七の大神様と御成り…鱗は一枚もなし、角も一本もなし、体の色は青水晶の…天地の元の祖神」
「斯世を創造して、天地を開く事に非常に苦心…此の大神様が第一番で、ミロクの大神ともツキの大神とも申上げる」
「我の片腕に成るのは其方様…日の大神様も…力一杯活動いたし」
(『伊都能売神諭』大正八年二月十八日)
さらにこのミロクの大神に通じることが、天祥地瑞の太元顕津男の神の歌に出て来る。自らを鰻だったと言われている。
「西南の空より下りし我にして この清泉に住みたくぞ思う」
「その昔鰻となりて仕へてし 我はなつかし泉の水底」
「この水に鰻とかへりて永久に 我は住みたくなりにけらしな」 (七十五巻一章「禊の神事」)
太元顕津男の神が「西南の空より下り」と詠んでいるとおり、「太元顕津男の神の神名は、ア声の言霊南西に活き給ひて顕れ給ふ神名」(七十三巻「総説」)とある。
また、「太元顕津男の神は大太陰界に鎮まり給ひて至仁至愛の神と現じ…瑞の御霊…伊都能売神と顕現し…現身をもちて」(七十三巻一二章「水火の活動」)とあるとおり、太元顕津男の神はミロクの大神であり、現身を持たれる出口聖師へと至る。
つまり、「泉の水底の鰻」とは、泥海におられた鱗も角もない青水晶色の蛇体のミロク様ということになる。
大正五年、国祖の大神がなお開祖に懸かられて出された大本神諭の泥海のミロク様に関する内容が、大正八年、同じく国祖の大神が出口聖師に懸かられて出された伊都能売神諭で詳しく述べてある。さらにその内容を受けた歌が三首、昭和八年に出口聖師が口述された天祥地瑞の中にある。教典の違いはあっても、同じ教えが貫いてあることがわかる。
○大地の創造
また、伊都能売神諭では、国祖の神様が、世界を造る手伝いをしたいとミロク様にお申し出になり、「誠忠無比の神であるから世界の一切を委す」と言われ、「土と水とを立別け、山、川、原、野、海を拵らえたのが地の先祖の大国常立之尊」(『伊都能売神諭』大正八年二月十八日)とある。
霊界物語では、大地の創造がさらに具体的である。
「もつとも大きな竜体の泳ぐ波動で、泥の部分は次第に固くなりはじめ、水の部分は稀薄となり、しかして水蒸気は昇騰する。そのとき竜体が尾を振り廻すごとに、その泥に波の形ができる。もつとも大きな竜体の通つた所は大山脈が形造られ、中小種々の竜体の通つた所は、またそれ相応の山脈が形造られた。低き所には水が集り、かくして海もまた自然にできることになつた。この最も大いなる御竜体を、大国常立命と称へ奉る」(一巻二○章「日地月の発生」)
○神々の昇り降りの龍宮館
昨年八月二十七日、瑞生大祭後の七夕祭に参拝した。本宮山に向かって祈った時、大神様との一対一感など、これまでにない気持ちの入りようを感じた。
「気持ち込め大天主太神の御名唱える本宮山へ」 (『愛善世界』令和五年十一月号 自作)
実はこの参拝前の八月一日、伊都能売神諭のうち、この文章で引用した箇所を拝読し、「YouTube藤井盛」に配信していた。
ことに、次の箇所は、七夕祭にも重なる神々の昇り降りが示されており、ここを事前に拝読していたことで、霊地に関する思いが特に強くなった。まさに感謝祈願詞にある「言霊の助に依りて大神の御心を直覚り」ということである。
「五六七の大神様と日の大神が…天を固めに御上り遊ばし…綾部の神宮本宮の坪の内、龍宮館の地の高天原…天地の神々が…昇り降り…集会を遊ばし…御相談なされた結構な霊地」 (『伊都能売神諭』大正八年二月十八日)
なお、大本神諭にも龍宮館での神様の昇り降りの箇所がある。
「綾部の陸の龍宮館の高天原には、結構な神が降り昇がりを成されて、世の立替に付いて歴然と神謀神策な現象」(『大本神諭』大正五年旧五月十八日)
○陸(あげ)の龍宮「奥の院」
綾部の陸の龍宮館の「奥の院」が鉢伏山だとある(『大本七十年史下巻』)。この鉢伏山に昭和二十一 年五月二十三日、出口聖師が登られている。その後の七月、最後のご巡教先が紀州路であったが、鉢伏山もどうしても行っておかなければならない霊地であったということである。
日本列島がユーラシア大陸から分離し、日本海ができ、「元の大国常立尊が、竜体を現じて地上の泥海を造り固めてゐられた時のお姿同様」(一巻二一章「大地の修理固成」)に竜の形に形成された約一千五百年前は、地質時代の「新生代・新第三紀」に当たる。
鉢伏山は、これと同じ時代区分の中にある二百五十四万年前の火山活動で噴き出した溶岩からなる山である。陸の龍宮で神々が昇り降りされ、天地の創造や世の立替えの相談がなされた時代を表徴する意味での「奥の院」という考え方はどうだろうか。
なお、この鉢伏山に平成二十八年十月八日、妻とお参りをした。翌二十九年十月三十日に妻が他界して、まもなく七年目になる。腹の据わっていた妻が今も生きていたら、孫娘の不登校にどう対応していただろうか。
(令6・10・27記)
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