【伊勢神宮・外宮の由来】
8年前の平成25年12月23日、式年遷宮のあった伊勢神宮の外宮を参拝した。外宮には式年遷宮を記念した博物館「せんぐう館」があり、外宮の由来が説明してあった。
第21代雄略天皇の即位22年(478年)、雄略天皇は夢の中で天照大神から御託宣を受けた。
「吾一所のみませば甚苦し、しかのみならず大御饌も安く聞こし食さずますが故に丹波国比治の真奈井にます我が御饌都神、等由気大神を我許欲」(止由気宮儀式帳)
「私は五十鈴川の川上の一所にいるのははなはだ苦しいし、食事を安らかにとることができないので、丹波国にいます私の御饌都神である豊受大神を伊勢に迎えてほしい」御饌(=食事)
食事もだが、天照大神は、まずお一柱で祀られていることが心もとないということであったのだろう。そこで比治の真奈井の大神に、食事係の神、豊受大神として来て欲しいということだったのではないか。
さて、この御由来に添ったのか、比沼麻奈為神社の祭神も豊受大神である。
一方、霊界物語には、比沼の真名井ケ原に降臨された神様は、豊雲野尊(豊国姫)だと示されている。霊界物語は真実を示す書である。
「我は豊雲野尊、又の御名豊国姫の神なるぞ、国治立の大神と共に一旦地底の国に身を潜め」〔第17巻第6章「瑞の宝座」〕
この豊雲野尊・豊国姫の来歴は、第6巻(第20章「善悪不測」)に示されたとおりである。
「国祖国治立命、豊国姫命の二柱は、千座の置戸を負ひて、根の国、底の国に御退隠遊ばす事となり…『是より進みて幽界を修理固成し、万の身魂を天国に救はむ』と、夫婦二神相携へて、さしも烈しき天教山の噴火口に身を投じ…野立姫命は…西南隅なる地汐の世界に入らせ給ひける」〔第6巻第20章「善悪不測」〕
ところで、出口聖師は「豊受大神」が「瑞霊・豊雲野尊」であることを示しておられる。
【皇典釈義】
出口聖師執筆の「皇典釈義」(大正7年8月8日)に伊勢外宮に関する記述がある。
「豊受姫の大神と称し奉るは、亦の御名を「神呂美神」と称し」〔皇典釈義第九節〕
豊受大神の別名が「神呂美神」とある。我々はこの御神名を天津祝詞で常々唱えている。
天津祝詞
「高天原に元津御祖皇大神数多の天使を集へて永遠に神留ります。神漏岐神漏美の御言以ちて」〔第60巻第14章「神言」〕
この「神漏美の御言」が「太古の神の因縁」(大正7年1月5日)で説かれている。
「ミロクの神は天系、霊系、火系、父系なる高皇産霊神を神漏岐之尊として宇宙の造化に任じ給ひ、神皇産霊神を神漏美之尊として、地系、体系、水系、母系として、宇宙の造化に任じ玉へり」〔太古の神の因縁〕
つまり「神漏美之尊」は、神皇産霊神が宇宙造化の折の活動神としての御神名である。「神皇産霊神」は、今回学んでいる第17巻の霊の礎(三)に出ており、瑞の御霊「豊国主尊」だと示してある。
「水の御祖神(体)を神皇産霊大神と称へ瑞の御魂と申し奉る…体系の主宰神は瑞の御魂と坐します豊国主尊と申し奉る」〔第17巻「霊の礎」(三)〕
また、次に示すとおり、瑞霊=豊国主尊(豊雲野尊・豊国姫)=神素盞嗚尊=ミロクの大神とつながって行く。
「厳霊は経の御霊と申し上げ神格の本体とならせ給ひ、瑞霊は実地の活動力に在しまして御神格の目的即ち用を為し給ふべく現はれ給うたのである。故に言霊学上之を豊国主尊と申し奉り又神素盞嗚尊とも称へ奉るのである…さうして厳霊は高天原の太陽と現はれ給ひ、瑞霊は高天原の月と現はれ給ふ。故にミロクの大神を月の大神と申上ぐる」〔第48巻第12章「西王母」〕
「豊国姫の大神は 神素盞嗚の大神と 現はれ給ひ」〔第63巻第1章「玉の露」〕
皇典釈義と霊界物語をたどれば、豊受大神=ミロクの大神となる。豊受大神をミロクの大神だと理解して皇典釈義を読めば、釈義中にある次の表現も理解できる。
○至大天球之中を一呑し玉い ○世の極元なる秩序の謂れを…明に産み出す ○極母の位 ○女装を以て斎い祭らせ ○億兆万々代の御神と神体を懐胎し ○天津誠の謂れを正に明らに豊受けつつ保ち給う
加えて
○厳脊の大神と称し
との記載がある。伊勢について
「伊勢とは、イはイ走る…等のイにて強き意也。セとは妹が夫を指して脊というと同義のセ也」
とある。つまり、妻が大いに頼みとする夫・背の君を「厳脊」と呼ぶということである。
あたかも、国祖(厳霊)の大神が、地上神界の主宰神に復活される折、天祖・ミロクの大神(瑞霊)を頼みにされたのと同じである。
「撞の大神は地上に降臨せられ…現代の混乱世界を修理固成せんと、国祖国常立之尊の補佐神と成り玉い…国祖の大業に臣事し給う」〔太古の神の因縁〕
「三体の大神は国祖にむかつて…我また、一陽来復の時を待つて、貴神を元の地上世界の主権神に任ずることあらむ。その時来らば、我らも天上より地上に降り来りて、貴神の神業を輔佐せむ」 〔第4巻第45章「あヽ大変」〕
【豊受大神は瑞霊・豊雲野尊】
ところで、厳霊・国祖国常立尊は天照大神と顕現され、また瑞霊は、豊雲野大神や神素蓋鳴大神と顕現される。
従って、国祖の大神が天祖を頼みとされたように、伊勢神宮においても、厳霊・天照大神が、瑞霊・豊雲野尊や神素盞嗚尊を頼みとするために比治の真奈井から、豊受大神の御神名で外宮にお迎えになったということである。
出口聖師は、豊受大神が「神呂美神」、つまり瑞霊・豊雲野尊だとご承知であったからこそ、比沼麻奈為神社に、実弟の上田幸吉氏を宮司として、大正3年から昭和19年までの30年間、赴かせたのだと思う。
なお、豊受大神を、天照大神の食事係の神様とのみ思って拝むのと瑞霊・豊雲野尊や神素盞嗚尊と知って拝むのでは、その御神徳の発揮は雲泥の差があるのは当然のことである。
ちなみに、病気平癒を祖母のお楢が、真名井ケ原の豊国姫や素盞嗚尊に祈念することで、お節の病気が快方に向かっている。
「ヤアお節、気が付いたか、嬉しい嬉しい。これと云ふも、全く神様のお蔭…お前の病気は漸々と悪くなり、到頭縡切れて了ひ、妾も気が気でならず、又気を取り直し、真名井ケ原の豊国姫の神様、素盞嗚神様を一生懸命に念じて居ました。さうすると、段々冷たうなつて居たお前の体に温みが出来て来、青白い顔は追々に赤味を増し、細い息をしだすかと見れば、お蔭で物を言ふ様になつて呉れた。アヽ有難い有難い、真名井ケ原に現はれませる大神様…」〔第17巻第11章「顕幽交通」〕
【後記】
竹田城跡に行った年の翌年平成29年10月30日、妻は60歳で帰幽した。その2年前の平成27年11月1日、大本信徒連合会の大本大祭に参拝した。妻と西宮に住む長女夫婦との4人での愛善荘への参拝が、これが最初で最後になった。今から6年前になる。竹田城跡も長女夫婦と行った。
その大祭では、この文章の第1回目で記した剣尖山麓への天照大御神の降臨〔第16巻第16章「神定の地」〕の場面が、神劇として奉納された(註2)。黒子役が作り物の蜂を揺らし、その蜂に青彦が刺されて改心に至る場面のにぎやかさは、いつもどこかユーモアがある霊界物語の面白味を、よく醸し出していた。
私はその神劇でナレーターをさせていただいた。多くの信徒の方々や妻、娘夫婦も見る中での緊張感と楽しさが、昨日のことのように思い出される。
(註2)愛善世界」誌 平成27年12月号掲載。
〔令4・2・8記〕
〔『愛善世界』令和5年4月号〕
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