㉑改心と風景

風景 「愛善世界」誌掲載文等

 現代社会は災害や紛争、犯罪が多発し、また不正やいじめなどがはびこる苦しみに満ちた世の中だと我々の目には映る。しかし、これが本来の姿だろうか。神を悟り改心した者は、風景に天国のありさまを見ることが霊界物語に示してある。

○鈴木秀子さんの体験

 私は、『愛善世界』平成二十八年二月号掲載の「現界と天界とのつながり」において、鈴木秀子さんの臨死体験を紹介した。

 天に上昇する時の幸福感が、鈴木さんの著作「臨死体験 生命(いのち)の響き」に記述されていたが、次にあるのは現界に戻ってからのことである。

 外には奈良郊外の秋の田園風景が広がっていました。刈り入れを終えたあとの田圃(たんぼ)がどこまでも続き、稲が束になって下がっています。

 そんなのどかな景色を眺めながら、すがすがしい稲の香りを胸いっぱいに吸いこんだとき、大きな感動が私のからだをつらぬきました。

 光、風、土、植物……自然界のありとあらゆるもの、大宇宙のさまざまなものすべてが、すばらしい秩序の中にあって、それぞれがそれぞれの役割を果たしつつ、全体で見事に調和している―。   

 それは、それまでに一度も感じたことのない、ひらめきに似た強烈な感動でした。

 まさに、大宇宙との一体感を、頭ではなく、からだ全体で、魂の深みで悟ったような感じでした。

 クリスチャンである鈴木さんは、大宇宙との一体感のなかで、自然界の秩序と調和のすばらしさに感動されている。

 なお、鈴木さんは臨死体験のなかで、生命そのものの光の主から自分が理解され、愛されていると感じておられるが、現界での感動はその延長上である。

鈴木秀子著「臨死体験 生命いのちの響き」

○改心した高姫

 この鈴木さんと同様のものを、改心した高姫も風景から感じている。

 今迄執着心に捉はれて居た高姫の眼には、森羅万象一切悪に映じてゐたが、悔悟の花が心に開いてから見る天地間は、何もかも一切万事花ならざるはなく、恵ならざるはなく、風の音も音楽に聞え、虫の音も神の慈言の如く響き、野辺に咲き乱れた花の色は一層麗しく、楽しく且つ有難く、一切万事残らず自分の為に現はれて呉れたかの如くに、嬉しく楽しく感じられた。
      〔霊界物語第二十九巻第一三章「愛流川」〕

 改心すると、見るもの聞くものすべてが嬉しくて楽しくてしかたがないというありさまである。

 本来、我々を取り巻く世界はとても美しく、魂が美しくなれば、その美しさが見えてくるのだろう。

出口王仁三郎聖師作
耀盌「御遊」

御遊(ぎょゆう):宮中や上皇の御所で催された管弦・朗詠の遊び]

○シャルの心の揺れ

 しかし、高姫は肉体に侵入した兇霊【註1】のため、再び慢心してしまう。すると、高姫の目に映る中有界の風景も、元の悪へと一変してしまう。

 また、精霊が高姫の教えに信従し、現界に生命を残しながらも蘇生しなかった泥棒シャルも、天人の顔が鬼に見えてしまうのである。

 かかる所へ美妙の音楽聞え、美はしき三十前後の天人が現はれ来りぬ。高姫は見るより仰天し、アツと計りに其場に倒れたり。
 〔第五十六巻第九章「我執」以下同じ〕

 シヤル『何万とも知れぬ怖い顔した(おに)()鉄棒(かなぼう)を持つて家のぐるりを取巻き、厭らしい鳴物(なりもの)を鳴らし、鼻の塞がるやうな匂ひをさして攻めかけた時の怖さ、辛さ‥』

 ところで、シャルには、川に溺れたケリナ姫を助けた善人の一面もある。次第に、その目に映る風景に変化が現れ、それまで天人が鬼に見えていたものが、天人にも見えてきたりするのである。

 私の目では彼奴(あいつ)が鬼に見えたり、又綺麗な天人に見えたりして仕方がありませぬワ。

 さらに宣伝使の三千彦に会い、枯野ヶ原に見えていた風景が、春野に変化している。

 シャルの目には今まで、寒風吹き荒む枯野ケ原と見えてゐたのに、三千彦に遇うてから其処ら一面が春野のやうになり、鳥唄ひ、花匂ふ光景が目に入るやうになつた。シャルは嬉々として三千彦の後になり先になり、北へ北へと進み行く。
 〔第五十七巻第一一章「鳥逃し」〕

 魂が善へと救われていくに従い、見える風景も次第に天国化するのである。それにしても、人を善へと導く宣伝使の影響力は大きいものである。

 【註1】第五十巻第三章「高魔腹」金毛九尾の悪狐は、高姫が少しく嫉妬心の兆したのを幸ひ、其虚に入り

出口王仁三郎聖師作
昭和初期「陽光」
(筆者所有)

○人が死後に見る風景

 我々は死後、中有界に至るが、そこでは、精霊の善悪によって目に映る風景が異なっている。

◇善の精霊が見る風景

 (東の方面から()(ちまた)の関所へ)
  善の精霊が八衢へ指して行く時は、殆ど風景よき現世界の原野を行く如く、或は美はしき川を渡り、海辺を伝ひ、若くは美はしき花咲く山を越え、或は大河を舟にて易々と渡り、又は風景よき谷道を登りなどして(やうや)く八衢に着く
 〔第四十八巻第七章「六道の辻」以下同じ〕

◇暗黒なる副守護神の精霊が見る風景

 ~悪と虚偽の度合いで、来る方面と苦しみが異なる~

(西から)針を立てたやうな‥剣の山を‥(つまづ)いてこけでもしようものなら、体一面に、針に刺され

(北から)冷たい氷の橋を渡つて‥手足が凍えて、殆ど生死の程も分らぬやうな  

(南から)山一面に火の燃えて‥煙にまかれ、衣類を焼かれ、大火傷をなして 

(東北から)雪は身を没するばかり寒い‥こけつまろびつ、死物狂ひになつて数十里の長い道を 

(東南から)満目蕭然(せうぜん)たる枯野ケ原を只一人‥泥田やシクシク原や怪しき虫の居る中を

(西南から)崎嶇(きく)たる山坂や岩の上をあちらへ飛び‥ 種々の怪物に時々襲はれながら、手足を傷つけ 

(西北から)赤跣足(まつぱだし)になり、尖つた小石の路を‥命カラガラ八衢へ

 また、この第七章「六道の辻」には、善の精霊が行く道は、最下層の天国の状態に相似し、一方、暗黒なる副守護神の精霊は何れも地獄へと行き、八衢の関所に至る方向も善悪の程度次第と示してある。

 肉体を離れ、精霊のみとなった中有界では、まさに個々人の精霊と風景とは一体のもので、風景は精霊に応じたものとなっている。まるで、精霊が風景を生み出しているかのような印象を受ける。

○世は苦しみの「火宅」ではない

 この副守護神の精霊が見るような風景が第五十五巻にある。人民の膏血を搾り、巨万の財を積んだテームスの祖先の罪業が作った地獄道の一場面である。

 野中に立てる大なる家屋の‥柱は虫喰ひ、処々に壁破れ、高き堂舎(だうしや)柱根(ちうこん)砕け朽ち、梁棟(りやうとう)傾き(ゆが)み、(たる)()(こまい)、脱け落ち、得も云はれぬ臭気四辺に充ち満ちたり。熊、鷹、鷲、(からす)(へび)(うはばみ)(まむし)蜈蚣(むかで)蚰蜒(げじげじ)百虫(おさむし)(むじな)を始め名も知れぬ悪虫の(ともがら)屋内(をくない)を前後左右に往来し、屎尿(しねう)(にほひ)(はな)をつき、蛆虫(うじむし)、糞虫、足許に集まり来る其嫌らしさ。
 〔第五十五巻第一二章「霊婚」〕

 この荒れ果てた家屋の描写は、鬼春別が読経した次の婆羅門経典を基としているが、これは実際の「法華経()()(ほん)第三」の読み下し文である。

 (いつ)大宅(だいたく)有らむ‥頓弊(やぶれ)堂舎(だうしや)高く危く、柱根(ちうこん)(くだ)()ち、梁棟(りやうとう)傾むき()がみ、基陛(きへい)(くづ)(やぶ)れ、墻壁(しやうへき)(やぶ)()け、(ない)()(あば)け落ち、覆苫(ふせん)乱れ墜ち、椽梠(たるのき)(たが)ひ脱け、周障(しうしやう)屈曲(くつきよく)して、雑穢(ざふゑ)充徧(じゆうへん)せり‥(とび)(ふくろ)(くまたか)、鷲、(からす)(かささぎ)(やまばと)鴿(いへばと)蚖蛇(からすへび)(くぢはみ)(さそり)蜈蚣(むかで)蚰蜒(げじげじ)守宮(やもり)百足(をさむし)(いたち)(たぬき)(あまくち)、鼠、諸々の悪虫の(ともがら)交横馳走(かうわうちそう)す、屎尿(しねう)の臭き処、不浄流れ()ち、(うぢ)(くそむし)諸虫(しよちう)(しか)も其の上に集まれり。
 〔第五十五巻第一一章「驚愕」〕

 ところで、この法華経()()(ほん)第三には、有名な一節がある。

  三界無安 猶如火宅
  (三界は安きことなし なお火宅の如し)

  「火宅の人」という壇一雄の小説があるが、この「火宅」とは、煩悩や苦しみに満ちたこの世を、火炎に包まれた家にたとえたものである。また、ウラル教の宣伝使ブールが、現世は苦しみの家、火宅だと言って、餓死せんとする国人に説いている。

 

 迷へる者よ! 汝等ウラル教の神の福音を聞け! 人の斯世に生れ来るや、幽窮(いうきう)無限の天地に比ぶれば、(あした)の露の短き命のみ。現世は仮の浮世なるぞ、苦みの家なるぞ、火宅なるぞ。何を苦んで現世にあこがれ、苦みを求めむとするか。
 〔第三十巻第一四章「霊とパン」〕

 このように、法華経やウラル教では現世を苦しみの世と言っているが、霊界物語の天祥地瑞においては、これが否定されている。

  愛善の光にみつる神の国を 火宅とをしへし曲津の教かな
 〔天祥地瑞第七十五巻第二章「言霊の光」以下同じ〕

 曲津の教えとは強烈だが、地球は「紫微天界のやや完成したるもの」と示されている。具体的には、「スの言霊の水火(いき)によりて鳴り出で」「主の大神の住はせ給」「紫微の天界」が、「五十六億七千万年の後、修理固成の神業」により「完成期に近づ」いたとされ、また、次のようにも示されている。

  言霊の水火(いき)は次ぎ次ぎ固まりて この(うるは)しき天地(あめつち)は成れり

 主の大神は、この地球を愛善の光に満ちた美しい紫微天界に作り上げようとされている。主の大神の御霊(おみたま)である聖師が、第二次大本事件の未決監から出られて心魂を注がれた耀盌作り【註2】にも、その思いが強く込められていると私は思う。

 地球は、けっして苦しみの世とするために作られてはいない。苦しみの世と感じるのは、見る側の人々が(あま)り」に「身魂の曇りが(ひど)」く「何を申しても‥改心が出来」ない【註3】からなのだろう。

 我々の見る現界の風景には、主の大神の霊が(あまね)く満ちており【註4】、臨死体験で生命そのものの光の主を感じた鈴木さんや改心した高姫は、その風景に現れた天国のありさまを見て感動しているのである。

 【註2】聖師は大正十五年から楽茶碗の制作を開始。耀盌は昭和十九年から一年余りで三千個に達した。
 【註3】大本神諭明治三十六年旧四月一日
 【註4】大本教旨 「神は万物普遍の霊にして‥」

○お寅婆さんの改心

 ところで、小北山で、金と恋に執念を燃やしていたお寅婆さんの改心劇は見事である。

 改心したお寅婆さんの心には、天国の花園が映り、その改心の秘訣は、神様を理解することであり、また、御恵の源が神様にあることを悟ることである。

出口王仁三郎聖師作
耀盌「天国九」
〔他に「天国廿八」などもある〕 
◇天国の花園が映る

 (しばら)くすると、何処(どこ)ともなく燦然たる光明が輝き来り、お寅の全身を押し包むやうな気分がした。お寅は何時(いつ)とはなしに夢路を辿つてゐた。ヂツと眠つてゐる目の底には美はしき天国の花園が開けて来た。牡丹や芍薬やダリヤの花が錦の様に咲き盛つてゐる中を、紅白種々の胡蝶(こてふ)と共に遊び歩いてゐるやうな、えも言はれぬ気持になつて来た。‥歓喜の涙と変り、心天(しんてん)高き所に真如の日月(じつげつ)輝き渡り、幾十万の星は燦然としてお寅の身を包むが如き高尚な優美な清浄な崇大な気分に活かされて来た。
 〔第四十六巻第一五章「黎明」〕

◇恵の雨は天から降る

 神様さへ理解すれば、すぐに私のやうに、地獄は(たちま)ち化して天国の境域に進むことが出来るのだよ。
 〔第四十六巻第一六章「想曖」〕

 

 善悪正邪の分水嶺上に降る雨は、如何(どう)しても天から降らねばならぬ、決して人間の身体(からだ)から雨は降るものでない。‥お寅婆アさまは恵の雨は天より降るものだといふことを自覚した。決して人間の身体から雨は降るものでない。(ここ)に悟ると悟らざるとの区別がついて来るのである。
 〔第四十六巻第一七章「惟神の道」以下同じ〕

 天の御恵なくしては、到底救はるることは出来ない。広大無辺の天然力即ち神の御威光によらなくては、地上一切の事は何一つ思ひの(まま)に出来るものでない。

 神様の御恵を受けるのは、人が器であるということであり、また、人は神様のお道具であるとも示されている【註5】。

 我々がこうした神様の器やお道具に徹することができれば、我々の目に映る風景も天国のありさまに変わり、また、天地経綸の主宰者としての働きもできるのであろう【註6】。

 【註5】・第五十六巻第一章「神慮」凡ての人は天界や 地獄の所受のにて
     ・第五十六巻第八章「愛米」人間は只神様の御道具になれば()いのだ。
 【註6】・第五十七巻第一章「大山」天地経綸の主宰者たるの実を挙げ、生きながら天国に籍をおき

楽茶碗の制作をされる聖師

             (平29・4・16記)
      〔『愛善世界』平成29年7月号掲載〕

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