八月二十五日(月)の勉強会は、五十六巻八章「愛米」から九章「我執」まで。特に八章「愛米」には十四頁の長さで、自愛に関する求道居士と高姫の問答がある。
この問答で、求道居士の発言の基となっているのは、スエデンボルグ著の『天界と地獄』である。しかも鈴木大拙の訳が、ほぼそのまま使ってある。
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スエデンボルグ著
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〔天界と地獄・五百五十六〕「愛我とは己れのみよからんと願う意志なり、其他人のよからんを願ふことあるはただ己れに益ある時のみに限れり」
〔八章「愛米」〕「愛我と言ふのは自分のみよからむ事を希求する意思を指すのである。愛我心の強い人間は、他人のよくなる事を願ふのは只自分に利益をもたらす時にのみ限つてゐる」
自分に利益があるときだけ他人がよくなることを願う愛我に対して、天界の愛が説いてある。
〔天界と地獄・五百五十七〕「天界の愛とは、用の為めに用を愛し、又善のために善を愛して、教会のため…同胞の為めに之を躬行するにあり、之を神を愛し、隣人を愛すると云う」 〔八章「愛米」〕「高天原の愛は天国の愛である。天国に於ては用の為に用を愛し、善の為に善を愛して聖団の為…同胞の為に其身を空しうして、実践躬行
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『天界と地獄』にはないようだが、この八章「愛米」にある私の好きな一節。まずは高姫の言葉、一応もっともらしい。
高姫「人間は何
これに対する求道居士の言葉。人はただ神様のお道具になれと言う。
求道「人間は只神様の御道具になれば可
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また、主神と主神の顕現たる厳瑞二霊は一体で、神を三分
〔天界と地獄・二〕「天界に在りては、神格を分ちて三となすを得ず…神格の主に在りて一なること…心に三を念じて、而して口に一を云うを得ず」
〔四十七巻「総説」〕「大
加えて、神を三分する者は、天界に入れないと厳しく〔天界と地獄・二〕にある。
「神格を三分して、各位分立すと思い、これを一となして主の上に集中し得ざるものは、天界に入ること能わず」
(令7・8・28記)
〔『愛善世界』誌令和7年10月号掲載〕
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