○大本事件に関する教主様らのお歌
四代直美様のお歌に、母親である三代直日様を詠まれたお歌がある。
「一面のすすき野原で別れたり母逝きて五十日目の朝の吾が夢」(『愛善世界』誌平成十五年七月号)
また、大本第二次事件に関して、三代様が四代様や開祖様を詠まれている。
「死にたしと吐息もらせばをさな子は死ぬなといひて膝によりくる」(『ちり塚』昭和二十八年発行。次も同)
「死して猶安からぬ祖母ふたたびも逆賊の名に墓あばかれつ」
大本は二度の国家弾圧を受け、今また第三次大本事件にあると言われる。こうした中で、事件に関したお歌を率直に詠まれた教主様らの苦しい胸の内を、我々信者は知っておくべきだと思う。
○天祥地瑞と現実世界の一致
昭和十年十二月八日勃発の第二次大本事件が、その六年後の昭和十六年十二月八日開戦の太平洋戦争で敗れる日本に相応している。
例えば、事件勃発から大審院判決が出るまでの期間(昭一○・一二・八~二○・九・八)と開戦からサンフランシスコ平和条約調印までの期間(昭一六・一二・八~二六・九・八)がいずれも九年九月で、大本が弾圧下にある期間と日本が占領下にある期間とが一致している。「型の大本」と言われ、大本が弾圧されたことの影響が天皇主権国家の崩壊につながり、民主国家が樹立された。
この影響力の証しが、天祥地瑞七十八巻でもなされている。七十八巻に、天体の異変に触発され、政治を天津神から国津神にさせるという体制の刷新がある。同じように戦後、天皇主権が国民主権へと刷新されている。また、天祥地瑞にある天体の異変と同じことが現実世界でも起こっている。
天体異変の一致
《天祥地瑞》
「天の一方を眺むれば…上弦の月は下界を照し給ひ、月舟の右下方に金星附着して燦爛と輝き渡り、月舟の右上方三寸ばかりの処に土星の光薄く光れるを打ち眺めつつ、三千年に一度来る天の奇現象にして稀有の事なりと、神々は各自御空を仰ぎ、葦原の国土の改革すべき時の到れるを感知し」(一六章「天降地上」昭八・一二・二二)
《現実世界》
「午後六時なりき…旧十一月四日の上弦の月の右方下に太白星の影附着し、又五寸ばかり上方に稍光薄き星一つ輝ける珍しき御空を仰ぎつつ世の移り行く非常時日本の空気を悟りたり」(六章「焼野の月」昭八・一二・二○)

《新聞報道》(六章「焼野の月」余白 昭八・一二・二○)
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「何千年に一度…金星と土星が、
月の後に隠れんぼ」
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なお、天の奇現象は、第一次事件勃発の折にも、さらに出口聖師の入蒙の折にもあった。
「大正十年二月十二日、陰暦正月五日晴天白日の空に上弦の月と、太白星は白昼燦然として浪花の空に異様の光輝を放ち」〔第一次事件〕
(入蒙記六章「出征の辞」次も同)
「大正十三年二月十二日、而も同日の天空に楕円形の月と太白星が白昼燦然と輝き出した…満三ケ年を経た同月同日の白昼に、天空に同様の異変」〔入蒙〕
政治体制の刷新と主神信仰
《天祥地瑞》
「葦原比女の神は…天津神等を一柱も残さず地に降し、また地に潜みたる神魂の清き国津神を抜擢して、天津神の位置につらね、国土の政治一切を統括せしめ給ふ」(一七章「天任地命」昭八・一二・二二)
政治の担い手を、天津神から国津神へと大胆に一新した。
「天津神の言霊濁り水火濁り 光の褪せし土星なりけり (一六章「天降地上」昭八・一二・二二 次も同)
国津神の中より光現はれて 世を守るてふ金星の光よ
天津神は神を認めず国津神は 真言の神を斎きまつれる
主の神は天津御空に奇なる 兆を見せて警め給ふも
国津神の清き正しき魂選りて 天津神業を言依さすべし」
主神が天体異変を起こして、主神信仰の国津神を政治につけ、主神を斎き祭ることとなった。
「主の神の大宮柱太知りて 仕へまつらむ今日ぞ目出度き(一八章「神嘉言」昭八・一二・二三 次も同)
主の神の恵は永久に葦原の 新しき国土を光らさせたまへ」
この政治体制の刷新は、戦後日本の国民主権を予言するかのようである。

○平成天皇御誕生を祝われる出口聖師
主神の警めによる天体異変から生じた国政改革を示した一八章「神嘉言」が、昭和八年十二月二十三日口述された。この日、平成天皇が御誕生され、この一八章「神嘉言」の余白で、出口聖師が御誕生を祝われている。
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「皇太子殿下御誕生遊ばさる」の活字は大きく、「我国民の魂を蘇へらせ」や「歓喜せしめ」などで祝っておられる。
戦前の天皇主権が、戦後、国民主権となって天皇に即位された平成天皇が、あたかも七十八巻の内容を体現されたかのようである。
第二次大本事件と太平洋戦争、また天体の異変も関係した七十八巻と日本の政治体制の変化を、図にまとめてみた。

○象徴天皇たる平成天皇
大本弾圧に相応する太平洋戦争。戦争で県民の四人に一人が亡くなり、その後も長く米軍占領下にあった沖縄の地元紙が、平成三十一年四月末の平成天皇の御退位について、社説を載せている。
〇
『琉球新報〈社説〉天皇陛下あす退位 平和希求の精神を次代に (二○一九・四・二九) 〔註:傍線は筆者〕
皇太子時代を含め十一回来県された天皇陛下が退位する。
(略)
沖縄に対する陛下の思いは昨年十二月の会見で語られた「沖縄は、先の大戦を含め実に長い苦難の歴史をたどってきた」「沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは、これからも変わることはない」というコメントに凝縮した形で表れている。
(略)
陛下は沖縄戦犠牲者を追悼することで沖縄に寄り添う姿勢を示し、平和を希求してきた。その精神が令和の時代にも続くことを願う。
(略)
即位後の発言や行動は、沖縄を戦場にしたことへの贖罪の念の表れであろう。来県のたびに糸満市の国立戦没者墓苑や平和施設などに赴き、沖縄戦体験者や遺族らと語らう陛下の姿は、皇室に対する複雑な県民感情を和らげた。
(略)
「即位後朝見の儀」で陛下は「憲法を守り、これに従って責務を果たすことを誓う」と述べた。天皇の名の下に戦争へと突き進んだ過去の反省を込めたものと言えよう。
二○一三年四月二八日に開かれた政府主催の「主権回復の日」式典に安倍政権が陛下を招いたことは政治利用の一つだった。陛下自身の意にも反していたのではないか(注)。
陛下は原爆が投下された広島、長崎にも思いを寄せ、東日本大震災など自然災害の被災地を訪れ、人々を励ましてこられた。国民と共に歩む皇室の在り方を実践してきた。
象徴天皇としての務めを全うしたと言えるだろう』
〇
社説は、平成の天皇は、過去の戦争を反省するとともに憲法を順守し、国民と共に歩んで来られており、「象徴天皇としての務めを全うした」と誉めている。沖縄の地元紙でこその説得力もある。
○安倍政権に疑問を投げた平成天皇
ところで、この社説で(注)とした「陛下自身の意にも反していたのではないか」という社説が疑問を投げた部分がある。
この部分の上にある「主権回復の日」とは、昭和二十七年四月二十八日にサンフランシスコ平和条約が発効し、日本が占領を解かれた日である。安倍政権が、この記念式典に御自身を招いたことに疑問を持たれた平成天皇の言葉が残っている。
「日本が講話条約を締結した時、沖縄はその中に入っていないじゃないか。沖縄が独立の中に入っていない状況で、それを記念するというのはどういうものだろうか」(佐藤章著「日本を壊した政治家たち」)

なお、安倍首相は、平成二十九年五月三日、国民主権の放棄と天皇主権を主張する谷口雅春の信奉者が運営する「日本会議」主導の大会に、自衛隊の憲法明記のビデオメッセージを寄せている。
天祥地瑞で、聖師が御誕生を祝した平成天皇が、その期待どおりに、戦後の民主国家での象徴としてのお役目を十分に果たしておられる。
(令7・3・21記)
〔『愛善世界』令和7年5月号掲載〕
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