(54)入蒙を考える(その一) ―みろくの世の宝―

「愛善世界」誌掲載文等

○杖立温泉と神功皇后

 今年令和六年(二○二四)は、出口聖師が大正十三年(一九二四)に入蒙されて百年目に当たる。

 一方昨年は、大正十二年(一九二三)に出口聖師が熊本県の杖立温泉で御手代を出されて百年目に当たった。十月二十九日、山鹿市の瑞霊苑で開催された平和祈願祭があった夜、出口聖師がお泊まりになられた杖立温泉の白水荘に弟と泊まった。そして、出口聖師も入られたであろう白水荘の岩風呂に浸かった。

 この杖立温泉に(おき)(なが)(たらし)()(めの)(みこと)、つまり神功皇后が入られたと霊界物語特別編「入蒙記」にある。「三韓征伐に由緒ある(おき)(なが)(たらし)()(めの)(みこと)の入浴されしと伝ふる杖立の霊泉」(三章「金剛心」)

 この「杖立の霊泉」だが、出口聖師が泊まられた白水荘の真下に「元湯」という露天風呂がある。神功皇后が応神天皇を出産された際、この「元湯」を産湯として用いられたと伝えられている。白水荘に出口聖師が泊まられた理由が、実はここにあったのかもしれない。

「白水荘」 元湯は左へ降る(令5.10.29)

 なお、二十年前に妻と白水荘に泊まったが、この元湯に女性二人で入ったと後から妻に聞いた。元湯は、杖立川に沿った道に面しており、男性が入って来そうになったという。妻たちの度胸は神功皇后並みである。

○神功皇后の神懸かり

 古事記に、神功皇后に天照大神と住吉三神の、いわば厳瑞二霊が懸かられる場面がある。

建内宿禰(たけのうちのすくね)…『今かく(こと)教へたまふ大神は、その御名を知らまく()し』とこへば、すなはち答へて詔りたまひしく、『こは天照大神の御心ぞ。また(そこ)(つつの)()、中筒男、上筒男の三柱の大神ぞ』」(古事記「仲哀天皇」以下同じ)

 出口聖師は、神功皇后の神懸かりに「一厘の仕組」が示してあると言われている【註1】。

 出口聖師は、このように神功皇后を重要視されるとともに、神功皇后は、出口聖師の産土神社である小幡神社の御祭神開化天皇のひ孫の娘という出口聖師との関係の深さもある。

 ところで、この神懸かりがあったのが、大本山口本苑から北に十キロメートルにある標高七一三メートルの()(さん)山頂ではないかと思わせる民話【註2】が、地元に残っている。

 神功皇后の夫、仲哀天皇は、西暦一九三年から七年間、南九州の熊襲鎮圧のため現在の下関市にあった仮の皇居「豊浦(とよらの)(みや)」に滞在されたと言われている。華山は「豊浦宮」から直線距離で北に二十キロメートルしか離れていない。

「豊浦宮」皇居跡記念碑 (下関市忌宮神社)

 民話では、その山頂で熊襲鎮圧の軍議を仲哀天皇が開いたとある。天皇ら一隊が華山に向かい船で川を上り、十二艘の舟が着いた所に「十二艘」という地名が残る。さらに馬に乗った所には「馬立処」の石碑が今も建っている。

 九年前の平成二十七年三月、愛善苑の村山浩樹氏と華山に登った。本州西端にある山口県が三方を海に囲まれているのを、実際に頂上から確認することができた。天皇ご夫婦もご覧になったであろう。

 神懸かりで、神功皇后はこうも述べている。

「西の方に國有り。金銀(くがねしろがね)(はじめ)として、目の炎耀(かがや)種種(くさぐさ)の珍しき寶、(さは)にその國にあり。吾今その國を()せたまはむ」()せ‥帰服)

 西の国に、金銀などの宝が多くあると神功皇后は述べている。これも「一厘の仕組」となるのであろう。一方、仲哀天皇は海しか見えないと言われ、やがて亡くなられる。

「高き(ところ)に登りて西の(かた)を見れば国土(くに)は見えず、ただ大海あるのみあり」

 山頂には、仲哀天皇の亡骸(なきがら)を仮安置した(ひん)葬所もある。あたかも古事記を証明するかのような世界が、私たちのすぐ近くにある。

華山山頂の仲哀天皇(ひん)葬所から見た西の海

【註1】木庭次守著「新月の(かげ)」八幡書店版下巻三○一)

【註2】「小日本昔話」菊川町教育委員会

○神功皇后と三韓征伐

 神功皇后は「寶、(さは)に」ある国を「()せたまはむ」、つまり帰服させようと述べている。これが三韓征伐となるのであろう。

 入蒙記で「三韓征伐に由緒ある(おき)(なが)(たらし)()(めの)(みこと)と神功皇后が説明されているが、三五(おほもと)神諭にも神功皇后が出て来る。世界を見据えた印象を受ける。

「明治三十二年旧七月一日

 艮金神国常立尊が、神功皇后殿と出て参る時節が近よりて来たぞよ。此事が天晴れ表に現はれると、世界一度に動くぞよ。…世界の人民に改信致させる仕組であるから…艮の金神はカラ天竺までも鼻が届くぞよ」(六十巻二一章「三五神諭その二」)

 また、史実においても、実際に神功皇后が三韓に攻め入ったのではないかとする説がある。明治十三年、三韓時代に高句麗があった所で「広開土王(好太王)碑」が発見され、その碑文に、倭国が三九一年に朝鮮に攻め込んだという記述がある。

広開土王碑「391年倭国が高句麗に攻め込む」

 碑のある場所は、その後の満州国の領土となっており、また、入蒙のルートとにも近い。神功皇后が辿られた道と入蒙のルートが重なったところがあったに違いない。

 なお、山口県内には、神功皇后の三韓征伐にちなんだ地名などが残っている。

 美祢市の地名厚保(あつ)」。この地で三韓征伐の兵を集(あつ)めたから「厚保(あつ)」。また、山陽小野田市の地名「船木」や「楠」。三韓征伐の軍船四十八(そう)を造るために、クスノキ古樹の巨木が切られたとある。

クスノキ古樹の巨木伝説が残る大木森(おおきもり)住吉宮

○西の国の宝

 神功皇后は、宝のある西の国を帰服させ、その宝を得んとしたのではないか。

「西の方に國有り。金銀(くがねしろがね)(はじめ)として、目の炎耀(かがや)種種(くさぐさ)の珍しき寶、(さは)にその國にあり。吾今その國を()せたまはむ」()せ‥帰服)(古事記「仲哀天皇」)

 また、入蒙記にも、同じく西の国である中国の新彊(シンキヤン)は鉱物が豊富だとある。しかも、新彊が神の経綸に枢要な場所ともある【註3】。

「私の霊界で見てる所では、安爾泰(アルタイ)地方から新彊(シンキヤン)西蔵(チベツト)境の方面には、砂金と云ふより寧ろ金の岩とも云ふべき程の物が沢山隠されてゐる。鉱物のみでなく、新彊は神の経綸に枢要(すうえう)な場所で、一般に天恵の豊富な土地なのだ」(入蒙記二九章「端午の日」)

 なお、新彊(シンキヤン)の鉱物が豊富なことは、今日(こんにち)証明されている。

「ここ数十年、新彊では豊富な石油・鉱物資源が発見されており、現在は中国最大の天然ガス産出地となっている」(ウイキペデイア=中華人民共和国中央人民政府ホームページ引用)

 また、地理的関係をわかりやすくするため、新彊の位置や入蒙のルート、高句麗の位置を地図に落とした。併せて、後述する満州国(一九三二~一九四五)の位置も示した。

入蒙と宝に関係ある地図

【註3】参考:「愛善世界」誌平成二十九年六月号「未来の資源エネルギーと気候」新屋三右衛門氏

○みろくの世の宝

 入蒙から五年後の昭和四年(一九二九)、熱心な大本信徒【註4】であった三谷清氏は、満州に渡って来られた出口聖師から、「みろくの世の宝」について聞かされている。これが昭和三十四年の「おほもと」誌に載せてある【註5】。

「満州、シベリアはみろくの世のために大事な宝が地下に隠してあり、今は冬期酷寒の地であるが、その時には気候が変わり、温暖なよい土地になるはずだから、そのつもりで満州、シベリアについてよく研究しておきなさい」(「おほもと」誌 昭和三十四年一月号「四十年の信仰を顧みて2」)

 三谷氏は、昭和七年建国の満州国の行政官となり、戦後はソ連軍に捕えられた。この間、出口聖師から言われた「みろくの世の宝」を研究している。

 満州国の行政官時代には、満州東部全域から南満州の資源調査や開発を行い、埋蔵資源の豊富さを確認している。また、戦後のシベリア抑留の五年間には、シベリア及び中央アジア一帯八カ所の地に移されるなかで、土地々々の風土や開発状況の一端を観察している。

三谷 清氏

 加えて、出口聖師は三谷氏に対して「大きな御用」があると言われている。

「あなたにはなお満州で大きな御用があるので、内地へは帰れません。相当長く満州に居ることとなりましょう」

 昭和十八年に一時帰国した時も、出口聖師は三谷氏に対して、

「どんなことがあっても私が守護しておりますから、何時でも親船に乗っているつもりでおりなさい‥‥必ず護ってあげますぞ」

と言われている。

 三谷氏は、昭和二十二年のシベリア抑留中、急性肺炎に(ろく)(まく)炎併発という死線から奇跡的に助かっている。それ以前の昭和八年にも、乗り物の転覆をあらかじめ予感し、転覆時に軽傷ですんでいる。また、昭和十五年にも襲撃を予感し難を逃れている。

 このように、三谷氏は出口聖師の厚い御守護を受けて、みろくの世の宝を研究するという「大きな御用」を果たされている。

【註4】三谷夫妻は熱心な大本信者として、大本七十年史下巻・九七頁に出ている。

【註5】「おほもと」誌 昭和三十三年四月号「聖師さまと満州」 昭和三十三年十二月号 ~ 昭和三十四年三月号「四十年の信仰を顧みて」

○入蒙とみろくの世の宝

 実は、入蒙以前の大正七年の伊都能売神諭にも「五六七(みろく)の神代を建てる龍宮の御宝」、つまり「みろくの世の宝」が出てくる。

「龍宮の御宝…今度の二度目の世の立替の神の宝で、昔から隠してありた…金銀銅鉄水鉛石炭木材食物は…肝心の時には掘上げて…五六七(みろく)の神代を(たて)る」

「人民の自由に致さぬ様に、(わざ)とに寒い国の広い所に創造(こしらへ)て蓄へてありた」(大正七年十二月二十七日)

 御宝がある寒い国の広い所が、満州やシベリヤを指すとすれば、昭和四年に出口聖師が三谷氏に研究を命じた「みろくの世の宝」と一致する。また、古事記で神功皇后が言った西の国の宝も、この「みろくの世の宝」を指しているのかもしれない。

 ところで、入蒙記には、入蒙が霊界物語の内容を証明しているとの記述がある。

「日出雄『…之れが霊界物語の第一巻にある天保山の一部ですよ』

真澄『今度の蒙古入には霊界物語中の実現が大分含まれて居る』」   (二九章「端午の日」)

 そうであれば、霊界物語の基礎とも言うべき古事記や伊都能売神諭が示す「みろくの世の宝」も、入蒙により証明されたのかもしれない。

 なお、みろくの世とは「至仁至愛(みろく)様の世」【註6】とあるが、入蒙の前年大正十二年旧七月十二日、杖立温泉で出口聖師は五十二歳の誕生日に「弥勒最勝妙如来」【註7】、つまりみろく様となられている。入蒙により、その足跡をみろくの世の宝のある満州に残されたことになる。

【註6】大本神諭大正四年旧六月二十八日

【註7】五拾弐歳を以て伊都能売御魂(弥勒最勝妙如来)入蒙記八章「聖雄と英雄」

 (令6・1・14記)

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