昭和二十一年七月十六日、出口聖師は高血圧をおして、最後の御巡教で紀州に向かわれた。「紀州に行かねば、ご用のすまぬことがある」と力を入れられて、亀岡へのお帰りが七月二十六日という十一日間の長旅であった。そのお疲れか、一月後の八月二十六日には、脳出血の症状まで出ておられる。
私は、なぜ、そこまで無理をしてまで出口聖師が紀州に行かれたのか、その理由を知りたいと思い、十月二十四日から二十六日までの三日間で、出口聖師の行かれた所を辿ってみた。また、この原稿を書くのに、綾部市の出口三平氏からいただいた「松花会旅行資料」がたいへん参考になった。
○昭和八年・十年の紀州巡教
この昭和二十一年以前の出口聖師の二度の紀州巡教を取り上げてみる。一度目が昭和八年三月十一日から二十三日までの十三日間。
二度目は、昭和十年十一月十七日から二十日までの四日間で、昭和神聖会の支部発会式と歌碑除幕式で全国を回られる中でのことである。十七日には和歌山の玉津(島)神社の隣のあしべ旅館(跡地有り)に泊まられ、和歌浦の風光をめでておられる。

一度目の昭和八年には、多くの信者や地元名士と面会するとともに、熊野三社である熊野夫須美神社(熊野那智大社)(三月一九日)と熊野速玉神社(大社)(同日)、熊野坐神社(熊野本宮大社)(三月二一日)を参拝されている。

面会者の中には、博物学等で有名な南方熊楠氏の弟で、酒造業の常楠氏がいる(三月一一日)。また、熊野古道で「近露王子之跡」を揮毫された(三月二一日)。これが第二次大本弾圧で撤去を免れた数少ない碑文の一つであることを、札幌市の加藤雅信さんに教えていただいた。
また、紀州が神代から開けた所であることを、歌日記や挨拶で明らかにされている。
「伊邪那岐の神のひらきし紀の國はさながら神代にある心地すも」(昭和八年三月一八日)
「出雲民族殖民したるこの國は神代の由緒数多残れり」(同日)
「紀の國は神様に縁の深い國で言霊にて紀の國の紀は神となる…太古素盞嗚尊が樹木の種をお蒔きになった木の國で紀の國の意味は深遠…日本中で一番早く開けたのは紀の國で次は出雲」「紀の國を旅すると神代の昔が新しく蘇って来る」(昭和一○年一一月一九日)
加えて、東征をされた神武天皇のお歌もある。
「神武天皇國礎を固め給ひたる紀伊の國原に祈る御代かな」(昭和八年三月二○日)

聖跡顕彰碑(熊野神邑)
特に、神武天皇の長兄五瀬命を祀る官幣大社(竈山神社)を参拝され(昭和八年三月十二日)、命を讃えるお歌を四首も詠まれている。
「武勇神五瀬尊を祀りたる御前におもふ戦勝日本を」
「竃山の神に詣でて日本の肇國治らせし帝を思ふ」
「大神の武勇によりて日本の國の礎かたまりにけり」
「葦原の國のあらぶる神どもを討ちて御國をたてし神はも」 (肇国:初めて国を建てること)

○最後の御巡教と神武東征
「わしは霊でいつも(紀州へ)行っている」と出口聖師が言われ、紀州在住の大谷瑞淵氏も出口聖師を紀州熊野へ迎えた夢を見る(『大本七十年史下巻』七五四頁)というなかで、病躯をおして御肉体で行かれなければなかった紀州。
次のとおりの紀州御巡教のルート(同七五二~七五四頁)を、地図に落としてみた〔図1〕。
「①七月十六日、亀岡を出られ大阪まで。
②同日、大阪から海路で和歌山県の勝浦(現那智勝浦)まで。
③翌七月十七日、勝浦を出られ新宮市三輪崎まで。
④山路を三高農園に。信者との面会や快山狭や大観望の命名などをされ七月二十五日、海南駅へ。『海山を越えてはるばる紀の國の風致たへなるすがどに休らふ』(二二日)『六時間車中の旅にありながらよもの景色に見とれゐたりき』(二五日)
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⑤海南駅を下車され山本恒次郎氏宅で一泊。
⑥七月二十六日、難波まで行かれ自動車で亀岡に」
海路のルートは、同じく海路である神武天皇の東征ルート〔図2〕に一致している。また、出口聖師が上陸された勝浦に、神武天皇が上陸されたというお歌もある。

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「日の神のみ子のはじめて舟はてし勝浦にわれ春を来にけり」(昭和八年三月二○日)
また、『新月の光』(下二一○頁)にも勝浦のことが出ている。
「神武天皇が初めて勝たれて芽が出たから勝浦というのだ」(昭和十九年八月)

ところで、以前、神武東征ルートを辿った平成三年九月の台風十四号を文章にした(「台風十四号と『九月八日のこの仕組』~本宮山教碑建立九十年目の異例な台風~」『愛善世界』誌令和三年十二月号)。

その文章では、台風十四号のルートの一部が神武東征と一致し〔図4・①~③〕、しかも台風が本格化する九月八日と終息の九月十八日が、本宮山教碑建立の昭和六年九月八日と満州事変勃発九月十八日(旧暦九月八日)からちょうど九十年目に当たっていたことを述べた。

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なお、この台風の紀州ルート〔図5〕の一部も、出口聖師の紀州御巡教及び神武東征の「⑤海南駅・②名草邑」と一致している。
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○なぜ、海南駅に降りられたか
出口聖師は七月二十五日、海南駅に降りられ、山本恒次郎氏宅に一泊されている。しかし、それ以外の記録はなく、翌二十六日の七時半に和歌山へ出発されている。

ところで、「①海南駅」から和歌山市辺りの地図〔図6〕を見て驚いた。
神武東征時代の名草邑にちなんだ名が「②名草山」で残り、出口聖師が昭和八年にお参りされた「③竃山神社」や霊界物語の稚姫君命や玉能姫、球の玉が関係する「④玉津島神社」があった。さらに昭和八年に出口聖師が会われた南方常楠が経営していた酒造会社の「⑤(株)世界一統」があったが、「①海南駅」 から十キロメートルしかなかった。

私は、これらの場所を訪ねて、出口聖師が「①海南駅」に降りられた意味を考えてみた。

〔1 五(いつ)瀬(せの)命(みこと)の慰霊〕
「①海南駅」から北三キロメートルに「②名草山」がある。その北二キロメートルの竈山神社には長髄彦に命を奪われた神武天皇の長兄五瀬命のお墓がある。

出口聖師は、神武天皇が長髄彦を倒すのを助けた饒速日命は自分だと言われ(『新月の光』上三四六頁「王仁は饒速日だ」)、出口聖師が大正五年四月五日(旧三月三日)、神武天皇を祀る橿原神宮を参拝された折、神武天皇の神霊に会われている(「神島開きを考える」『愛善世界』誌令和三年四月号)。


また、出口聖師は有栖川宮熾仁親王の落とし胤として、天皇家の血筋を受け継いでおられる(写真)。

さらに日本書記の 「第十七巻 継体天皇」に出て来る倭彦王が、霊界物語一巻(一章「霊山修業」)で「高熊山は…武烈天皇が継嗣を定めむとなし…穴太の皇子はこの山中に隠れ」とわざわざ引用し、この皇子の生まれ替わりが出口聖師だと連想させている。
このように神武天皇との近い関係の中、出口聖師が神島開きについて書かれた『敷嶋新報』(大正五年五月一日号)の最後に、神武天皇のお歌が載せてある (「神島開きを考える」前掲)。このお歌には長髄彦を討ちたいという思いがこもっている。

〔歌の意味〕粟(あは)の中にまじった一本のニラ(かみら)を抜き取るように、敵の軍勢を打ち破ろう。
こうした神武天皇の思いに同情を寄せられて、昭和八年に五瀬命のお墓がある竃山神社にお参りをされ、最後の御巡教でも近くに来られて、五瀬命の慰霊をされたのではないか。私はお墓の前で、日本書記(口語訳)の五瀬命が亡くなられる場面を読んだ。

〔2 玉津島神社への思い〕―和歌山の災害への気がかり―
「②名草山」の西二キロメートルに「④玉津島神社」がある。昭和十年十一月、出口聖師はこの神社の隣のあしべ旅館に泊まられているが、神社のいわれが霊界物語三十三巻に出て来る。

「玉津島…国玉別、玉能姫は此島に社を造りて、球の宝玉を捧按し、之を稚姫君の大神と斎祀り、…三五教の御教を木の国一円…和泉方面まで拡充した」(三十三巻二六章「若の浦」)
国玉別は青彦で、玉能姫はお節である。この二人が玉津島に球の玉を捧按し、稚姫君の大神を祀ったということである。これに関連したと思われる出口聖師の言葉がある。
「和歌山は大事なとこやで、お節(玉能姫)と青彦(若彦)をアアしてチャンと仕組しておいてもあれくらいやられた」 (『新月の光』下三一七頁昭和二十年 山川日出子氏拝聴)
山川氏が出口聖師から聞かれた昭和二十年は、紀州御巡教の前年である。「あれくらいやられた」とあるが、和歌山県では明治二十二年八月、死者一,二四七人の大水害があり、過去からも紀伊半島沖の南海トラフ沿いで、巨大地震(一七○七・宝永地震など)がくり返し発生している(『「災害の記憶」を未来に伝える』和歌山県立博物館編集。次も同)。
加えて、出口聖師の「近いうちに紀州と大阪に地震がある」(『新月の光』下二六二頁 昭和二十年一月十五日)という言葉どおり、紀州御巡教後の同年十二月二十一日に南海地震が発生し、和歌山県では死者・行方不明者が二六九人に達している。また、紀州御巡教の最終日にも災害を詠まれている。

「和歌山の惨状見つつ乗りて行く電車の旅はさびしかりけり」(七月二六日)
そもそも、「琉と球の玉」は「風雨水火を調節(する)…神器」(二十七巻一三章「竜の解脱)であるが、十分調節ができなかったのか。しかも「琉の玉と球の玉」は、自分だと出口聖師が言われている国依別(「国依別は王仁の事である」(『新月の光』下三一六頁)が、自らの言霊により解脱をさせた琉球の島の竜の腮から得たものである。
「国依別の言霊に…大竜別…は…琉、球の玉を納めたる玉手箱を、言依別、国依別の手に恭しく捧げ」
(二十七巻一三章「竜の解脱」)
災害への気がかりがあるため、御自身が直接関わられた球の玉のある玉津島神社の近くに行かれたのだろうか。
―記紀神話・霊界物語・大本神諭―
霊界物語に「琉の玉は潮満の玉、球の方は潮干の玉」(二十七巻八章「琉と球」)とある一方で、「竜宮ケ嶋には厳の御魂なる潮満の珠…瑞の御魂なる潮干の珠…潮満の珠の又の名を豊玉姫神といひ、
潮干の珠の又の名を玉依姫神といふ」(一巻三五章「一輪の秘密」)とある。
○琉の玉=厳の御魂=潮満の玉=豊玉姫神
○球の玉=瑞の御魂=潮干の玉=玉依姫神
一方、記紀神話では、豊玉姫と玉依姫は姉妹で、玉依姫は五瀬命と神武天皇の母親である〔図7〕。

さらに、出口聖師が国依別や饒速日命であることや二十七巻の内容を加えた〔図8〕。

また『神霊界』(随筆 大正八年七月二十六日)には、玉依姫は龍宮の乙姫だと示され、大本神諭では、龍宮の乙姫は冠島・沓島の荒海に住み、昔は欲深かったが改心し、宝を差し出し立替の御用をしているとある。
「龍宮は冠島から沓島の荒海が乙姫の御住居所」 (明治四十年旧七月十一日)
「龍宮の乙姫殿…昔から…慾な醜しき御心…御宝を…艮金神に御渡し…立替の御用…龍宮様の御改心」 (大正元年旧八月十九日)
天祥地瑞七十九巻にも竜宮島が出て来る。人面竜身の竜神族と国津神の間に子供が生まれるが、記紀神話でも、玉依姫の姉の豊玉姫が竜身となってウガヤフキアヘズノミコトを生んでいる。

また、妹の玉依姫(=龍宮の乙姫)も竜体となる場面がある。玉依姫は竜宮の神宝たる五種の宝を初稚姫や玉能姫の五人に渡す約束をし、諏訪湖中に帰る時「巨大なる竜体」(二十四巻一五章「諏訪湖」)となっている。
つまり、豊玉姫・玉依姫姉妹が竜体であることが、記紀神話と霊界物語の一体性を示すものとなっている。
その後、五種の宝は玉依姫から、初稚姫(紫の玉)や玉能姫(赤色の玉)らの五人に渡され、初稚姫らは由良の聖地に帰還する(二十五巻一六章「真如の玉」)。帰還の日は甲子の九月八日(二十六巻二章「真心の華」〔一〕)で、まさに「九月八日の仕組み」となっている。
―稚姫君と玉能姫―
玉津島に球の玉が捧按され、稚姫君は大神として玉能姫に祀られたが(三十三巻二六章「若の浦」)、稚姫君と玉能姫は国祖神政時代から現代に至るまで、生まれ替わりながら絶好のコンビとなっている。
○稚姫君命(稚桜姫命)が幽界行きとなった後の職を、天上から降った国直姫命が引き継ぐ。 (二巻四八章「律法の審議」)
○その後、それぞれ初稚姫、お節(玉能姫)として市井に生まれ替わる。
「稚姫君の御霊の裔なる初稚姫は金剛不壊の如意宝珠を永遠に守護し、国直姫命の御霊の裔なる玉能姫は紫の玉の守護」(三十三巻一七章「感謝の涙」)
○さらに現界に、それぞれ出口なお大本開祖と中山みき天理教祖と生まれ替わっている(二十四巻一六章「慈愛の涙」(昭和五年再版まで))。

〔3 不老不死なる常楠〕
紀州の常楠は若彦と熊野の滝で禊ぎをしている時、木花姫の神勅を受け琉球に渡り、国依別らとともに琉と球の玉の受取りに関わっている。
「紀州熊野の…常楠爺さまと」(二十七巻一○章「太平柿」)
「三五教の神の司言依別命、国依別命、若彦、常楠の四魂揃うて玉受取りに」(二十七巻一二章「湖上の怪物」)
その後、常楠は
「今に到る迄不老不死の仙術を体得し、琉球島の守護神となっている」 (二十七巻一六章「琉球の神」)
というように、今に至るまで不老不死とあるが、昭和八年(三月一一日)、南方常楠氏が面会者の中におり、現在も常楠氏の酒造会社「⑤(株)世界一統」が、「①海南駅」から十キロメートルの所にある。


常楠氏は、明治三年生まれで出口聖師より一歳上、没年が昭和二十九年であるが、不老不死なる「常楠」が、昭和二十一年七月二十五日の夜も山本恒次郎氏宅で、出口聖師と面会をされたかもしれない。
○「惨状」とは何か
昭和二十一年七月の出口聖師の紀州御巡教から私が思うことである。
霊界物語で展開される物語の世界をはじめ、記紀神話だと言われる神武東征の時代が作り話ではなく実在したものであり、これらが現在に至るまで一貫した歴史であること。
その中を出口聖師がいろいろと身を変じて生き通しであることによって、一貫して実在する歴史を証明されているのではないか。それを、病躯をおしてまで改めて証明されたのが紀州御巡教ではなかったか、そう思うのである。
ところで、先に載せた出口聖師のお歌で気になるものがある。
「和歌山の惨状見つつ乗りて行く電車の旅はさびしかりけり」(七月二六日)
和歌山市の「惨状」を詠まれているが、この時、和歌山市に災害があったかどうか。
紀州御巡教の前々年の昭和十九年十二月に東南海地震と津波が発生しているが、和歌山県内で特に被害が大きかったのは新宮市から那智勝浦町にかけてである。しかも、昭和二十一年七月の御巡教では、勝浦や新宮市三輪崎にも災害の痕が残るようなお歌はない。
和歌山県で災害があったのは、御巡教からお帰りになった後の昭和二十一年十二月の南海地震である。私は、出口聖師が見られた和歌山市の「惨状」とは、この南海地震を霊眼で見られたのかと思った。
この話を小松市の阿良田浄氏にしたところ、空襲ではないかと言われた。調べてみると昭和二十年七月九日から十日にかけて「和歌山大空襲」があった。一,一○○名以上が亡くなり、和歌山市中心部をほぼ壊滅状態にしている。
この大空襲から一年経った昭和二十一年七月の状態を、和歌山市立博物館の前田氏に電話で聞いてみた。大空襲で焼け野原になった写真が残っており、「惨状」は大空襲からまだ復興していない状態であろうとの感想を得た。
私は「琉と球の玉が風雨水火を調節する」とあることにとらわれていた。事実確認は重要である。また、昭和二十年に、山川氏が出口聖師から聞かれた「あれくらいやられた」も大空襲のことであったかもしれない。如是我聞には助けられるが、『新月の光』の中には明かな誤りもある。

○行かねば御用がすまぬ
さて、霊界物語に残る疑問。
「言依別は琉の珠の精霊を腹に吸ひ玉ひ、国依別は球の珠の精霊を吸ひ」 (二十七巻一六章「琉球の神」)
「形骸丈は……夫婦揃うて此玉を保管を」(同)
玉津島神社の球の玉は精霊を抜かれた形骸だけのもので、その精霊は国依別なる出口聖師のお腹の中にあるということだが、なぜそうされたのか。
出口聖師は、球の玉の精霊がお腹に入った御肉体を紀州に持って行かれ、和歌山に今後、大災害が起きないようにするために「紀州に行かねば御用のすまぬことがある」と言われたのだろうか。
(令7・11・13記)
〔『愛善世界』誌令和8年1月号掲載〕

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