⑬東日本大震災犠牲者慰霊五年祭レポート(2)

「愛善世界」誌掲載文等

震災地慰霊祭を草野一也さんに聞く

 東日本大震災の被災地を回って、三年前から慰霊祭を続けておられるいわき市の草野一也さんに、ご自身の特異な体験も混じえ、慰霊祭についていろいろとお聞きした。

 お聞きしたのは、平成二十八年三月十一日、福島県相馬市での震災犠牲者慰霊の五年祭の会場。

草野一也さん

― 震災が起きたときはどちらに。
草野 大熊町がふるさとで、避難地区のまっただ中。一旦、三春に避難して、息子のいる相馬に十日間。それから娘のいる横浜に半年。それから現在のいわき市の仮設住宅へ。自分は会社をやっていて、親会社がいわき市に来たので、ぜひ仕事をやってくれということで、仮設住宅の四畳半の中で仕事をしていた。寝起きいっしょで。

― 慰霊祭は、いつごろから、どういうきっかけで始められたか。 
草野 震災二年目の平成二十五年ごろから。東海本苑から震災の慰霊祭の話があって始めた。

― 最初はどこから。
草野 最初は岩手県宮古市から。遠い所から下って来た。上るのは大変だから。慰霊祭は、私と弟と菊地さんの三人で月一回、第三日曜日にやっている。去年の十月、弟と菊池さんが、青森県からやっている。

― その次の慰霊祭の場所は、何キロおきとか。
草野 何キロおきとか決めていない。宮古まで四百キロあるが、宮古でもいろいろ山田地区とか、大月町とか、特に被害が大きかったところを中心に。海岸沿いがほとんどで、今はもうほんとに更地になっている。青森はあんまり被害がない。一番ひどいのは岩手。盛岡も大変だった。

― 片道四百キロ、往復八百キロになるが。
草野 今、岩手に行くのに、会津若松で一泊して朝三時に出かける。帰りは夜九時、十時。片道八時間以上かかる。高速はいいのだが、一般道になってからこれがもう大変。山越えしなければならず、そして、海にまた下がらなければならない。

往復八百キロ

祭典では一度も雨が降らず

― 慰霊祭ができそうな場所はどうやって。
草野 いちおうナビで調べて行く。今は復興もかなり進み、堤防ができている。しかし、海が見えるとか、ああ、ここがいいとか、慰霊祭ができる場所が必ず一か所見つかる。不思議に。

 それと、二十五年から慰霊祭が始まって、雨に一回も遭っていない。途中まで降っているが、現地に行くとぴたっと止む。先月もそうだった。朝三時に起きて、出だしは小雨。「あ、雨だ」。そして岩手に行くからどんどん寒くなるし。「あ、みぞれになってきた」。そのうち、「あ、雪になっちゃった」。雪になって現場に行ったら、太陽がぼーんと。不思議。

― 車に祭壇があったとお聞きしているが。
草野 東海本苑が作った小さい祭壇をお借りしている。

― 祭典は。
草野 普通の慰霊祭と同じ。また、その地区地区の産土(うぶすな)の神様にも降りていただく。お祭は一時間かかる。ごまかしができないし。

― (みたま)さまの招魂では、どのように。
草野 「大震災、大きい波にもまれ、亡くなられた(みたま)さんたち」と言う。「たち」となれば全部入る。

― 神饌ものも持って行かれるのか。
草野 持って行く。最初のころは向こうの地元で買っていたが、時間がかかっていた。町に行って、また下がって来なければいけない。

霊的体験と霊(みたま)の御救い

― 祭典のなかで何か変わったこと、特異なことはないか。
草野 現地に着く三十分前くらいから、自分の体にいろんなことがある。足がちょっと重くなって、祭典中にはもう腰も重くなってくる感じ。しかし、祭典が終わった時点ですうっと元に戻る。

 (みたま)さんたちは、私たちが来るというのがわかっているのではないか。慰霊祭に来れば、救ってもらえるというのがあるのではないか。

― もともと草野さんは、昔から霊的な感受性が強い方か。以前、震災の時に支部の袚戸さんの神籬(ひもろぎ)大麻(おおぬさ)が動かなかったというお話を聞いたが、その時点ではそういう感覚はなかったか。
草野 なかった。慰霊祭を始めるようになってから。

― 日常生活のなかでは。
草野 日常の生活ではあんまりない。慰霊祭に行くたびにある。

― 弟さんや菊池さんにもそういう感覚があるか。
草野 ない。受けてもらうと私も助かるが。しかし、菊池さんも最近、祭典中にすごい涙を流す。ありがとうという答えを出してくれているのか。

― 終わればそういう感覚はさっと消えてしまう。
草野 天津御国に帰られたかなと受け取っている。

― 初めと比べて体験に変化があるか。場所によっても違うとか。
草野 もちろん、場所によっても違う。受けるのは強くなってきている。宮古の方では亡くなった方が千二、三百人くらい。そうした方たちが来ると、体が重くなる。逆に、亡くなった方が少ない所は体の負担が少ないので、二か所を一回でやるときもある。行ってみないとわからないが。

― やっぱり被害の大きかったところが。
草野 被害の大きいところがきつい。今月は釜石、そこも千人超。そこを終わると大船渡。その次が陸前高田。ここがまた大きい。

― 陸前高田はテレビでよく出たりする。
草野 そこはまた、かなりきついのではないか。

― きついからやめるというわけにはいかないのか。
草野 それはもうできない。雨が降っていても、現地に行くとぴたっと止むから不思議。

 この前は、かなり風も強かったが、車の方にはあまり風は来なくて、海の方はかなり白波が立っていた。ああ、風も向こうに行ってくれたなと。

― (みたま)さんが、やっぱり救われていない状態。
草野 だから来るのだろう。

― 亡くなれば、中有界や天国、あるいは地獄に行くが、慰霊のときには、(みたま)さんが寄って来るということか。
草野 寄って来るのだろう。「ただいまから慰霊祭を始めますので、ここで亡くなられた(みたま)さんたち、ご参拝をお願いします。みんなで天津御国に帰りましょう。ふるさとに帰りましょう」と祭典の始まる前に声をかける。そうすると、ばんばんばんと来るのだろう、体にぐぐぐと来る。あああと。そんな感じでやっている。

来年八月まで

― 慰霊祭の計画はいつまで。
草野 来年の八月まで。今年いっぱいで終わるかなと思ったが、終わらない。

― 慰霊祭を三年余りされることになる。心臓のお具合も悪くなられたと聞いたが、以前からか。
草野 前は病気はしていなかった。震災になってから。ストレスもあったと思う。心臓のバイパス手術が三回。ステントも五本入っている。

― (みたま)さんが待っててくだされば、行かざるを得ない。神様からのお役目という。
草野 東北に御用がいっぱい残っているのではないか。

― 慰霊をされ、(みたま)さんが救われていく。
草野 それが何より。

― 来年八月で一区切りということで。
草野 大熊町、福島第一原発で区切り。そこまでは東北の方。そこが境になる。そこを過ぎるといわきの方。そこで切らないと、またずずずずと行ってしまう。私はそこでもう終わりにしようと思う。

(後記)
 これまで十か所くらいで慰霊祭をされ、最終的には三十か所ほどになるとのことであった。お年をお尋ねした。いくつに見えますかと言われるので、七十五歳とお答えしたら七十六歳と言われた。お別れのご挨拶に握手をさせていただいたが、その手がとてもやわらかかった。

        (平28・3・21記)
〔『愛善世界』平成28年9月号掲載〕

慰霊祭祭典風景

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