~傾きがなくなる五十世紀~
藤井 盛
日本に四季の移り変わりがあるのは、地球の地軸が二十三・四度、太陽の公転面に対して傾いているからである。
つまり、太陽の周りを地球が傾いて回ることで、夏と冬とでの、日の高さと昼の時間の違いが生じ、太陽エネルギーの照射量と日照時間が変化するからである。
さて、この地軸の傾きが、どうしてできたのか。月が衝突したとか、巨大隕石が衝突したとかの説があるが、霊界物語には、その経緯を説明するかのようなお示しがある。
○ノアの箱舟
旧約聖書の「ノアの箱舟」とよく似た話が、「神示の方舟」として霊界物語にある。
旧約聖書には、悪を地にはびこらした人間を絶滅させるため、神が大洪水を起こした【註1】とあるが、霊界物語では、その人心悪化と大洪水の関係が、より詳しく説明されてある。
【註1】旧約聖書・創世記第六章五~一七
「人の悪が地にはびこり…すべての人を絶やそう…わたしは地の上に洪水を送って」
〔第六巻第一五章「大洪水」(一)〕
①『宇宙の変事は、宇宙の縮図たる人心の悪化によつて』
②『地上神人の精神の悪化は、地上一面に妖邪の気を発生し、宇宙を溷濁せしめ、天地の霊気を腐穢し、かつ空気を変乱せしめたるより、自然に天変地妖を発生するに至る』
③『天変地妖の襲来したのも、全く地上の人類が、鬼や大蛇や金狐の邪霊に憑依されて、神人たるの天職を忘れ、体主霊従の行動を敢てし、天地の神恩を忘却したる自然的の結果』
(丸数字①等は筆者。以下同じ)
つまり、宇宙の縮図である人心の悪化が、天変地妖を発生させるというのである。また、悪化した人心には邪霊が憑依し、人たるの天職や神恩を忘れ、体主霊従の行動をとるのである。
そして、霊界物語では、大洪水などの天変地妖により大地が傾くとあるのだが、旧約聖書に「洪水は四十日…山々は全くおおわれ…すべての生き物は…みな地からぬぐい去られ」(創世記第七章)とあるのに比べ、その描写は詳しく、かつ凄まじい。
○大地が傾く
①『雨は頻りに降りきたり、前後を通じて五百六十七日の、大洪水と大地震、彗星処々に出没し、日月光を押し隠し、御空は暗く大地の上は、平一面の泥の海、凄まじかりける次第なり』
(第六巻第一五章「大洪水(一)」)
②『世は焼劫に瀕せるか、酷熱の太陽数個一時に現はれて、地上に熱を放射し、大地の氷山を溶解したる水は大地中心の凹部なる地球に向つて流れ集まり、地球は冷水刻々に増加して、さしもに高き山の尾上も次第々々に影を没するに至りける。
このとき星はその位置を変じ、太陽は前後左右に動揺し、地は激動して形容し難き大音響に充されたりぬ。太陽は黒雲に包まれ、地上は暗黒と変じ、咫尺を弁ぜざる光景とはなりぬ』
(第六巻第一六章「大洪水(二)」)
③『見渡す限り地は一面の泥の海、彼方此方の高山は僅かにその頂を水上に現はすのみなりき』
(第六巻第一七章「極仁極徳」)
④『この大変乱に天柱砕け、地軸裂け、宇宙大地の位置は、激動の為やや西南に傾斜し、随つて天上の星の位置も変更するの已むを得ざるに致りける。
さて大地の西南に傾斜したるため、北極星および北斗星は、地上より見て、その位置を変ずるに至り、地球の北端なる我が国土の真上に、北極星あり、北斗星またその真上に在りしもの、この変動に依りて稍我が国より見て、東北に偏位するに致りける。
また太陽の位置も、我が国土より見て稍北方に傾き、それ以後気候に寒暑の相違を来したるなり』
(第六巻第一八章「天の瓊矛」)
これらの異変は、旧約聖書の大洪水どころではない。大洪水に加え大地震なども起こり、酷熱の太陽が数個現れて氷山が溶け、そして、大地は泥海、暗黒となり、高山も頂を残すのみとなったというのである。
さらに、星が位置を変え、太陽が動揺するなどの大変乱で天柱が砕け、地軸が裂けて大地が西南に傾くこととなったとある。
そのため、国土の真上にあった北極星や北斗星が、東北に、また、太陽の位置も北方へと傾き、「気候に寒暑の相違」が生じることとなったというのである。
○大地の傾きと四季との関係
さて、「大地の傾きで気候の寒暑の相違が生じた」ことを、「地軸の傾きで四季」があることに置き換えることができるだろうか。
【註2】
一方、我々の知る地球は球形で、我々が見る北極星は、二十三・四度傾いた地軸の延長上にあるので、夜空で静止した位置にある。もしも、地軸に傾きがなければ、北極星は天の真上を中心に回転することとなるが、我々から見れば、天の真上から下がった位置になる。
つまり、二者のいずれにおいても、北極星は天の真上の位置にある状態ではないということが言える。
苦しいところであるが、このことから、大地が傾き地球の「気候に寒暑の相違」が生じたことと、地球に「四季」が生じていることの関連付けをしたい。ただ実は、「大地の自働的傾斜運動で、昼夜や四季がある」ことが霊界物語にはあるが。
ちなみに、この「大地の傾き」が念頭にあると思われるが、立替えで北極星が元の「日本の真上」に戻るのかと聞かれた聖師が、そうはならないと答えられている。【註3】
【註3】新月の光 昭二○・冬
○厳瑞二神の犠牲的慈愛
さて、この大洪水が起きるのは、国祖ご隠退後に、常世神王、盤古神王両陣営の争いにより世の中が乱れるなかで、国祖が野立彦命に、また、妻神豊国姫が野立姫命と現れて、月照彦神などの宣伝使らが、救いの基本宣伝歌を唱え広めるなかにおいてである。
なお、善人は「神示の方舟」や金銀銅の三橋より垂下する救いの綱、亀と化した琴平別により、大洪水から救われている。
しかし、この惨状から森羅万象を救うため、野立彦命、野立姫命は、宇宙の大原因神大国治立命に救いを祈願されるとともに、地上万類の罪の贖いのため、天教山の噴火口に身を投げられるのである。
この犠牲的仁慈の徳のもと、大国治立命の命を受けた伊邪那岐尊と伊邪那美尊が、天の瓊矛を用いて「国造り」を行われることで、泥海の水が減じて元の陸地となり、全滅せんとした万物は残らず救われている。また、祓戸四柱の神により陸地の祓い清めが行われている。
このように大洪水の話を共通として、世間によく知られた旧約聖書にある「ノアの箱舟」と記紀神話の「那岐・那美二神の国生み」の二つの話が、霊界物語のなかで一つの連続したストーリーになる。
そして、この二つの話をつなぐのは、天教山の噴火口に身を投じられた野立彦命、野立姫命の厳瑞二神の犠牲的慈愛のご活動である。
○三五教の誕生
さらに、厳瑞二神のあとを追って、月照彦らの諸神人も噴火口に身を投じられるが、その後地上世界に転生し、釈迦や達磨、イエス、孔子などとなって人類の救済に当たっていかれる。
一方、野立彦命は埴安彦神と現れて五大教を、また、野立姫命は、埴安姫神から、さらに三葉彦命と現れて三大教を開き、両者は統一し三五教が誕生することとなる。
このように、厳瑞二神の犠牲的仁慈のご活動が基となって、今日我々が知る世界の各宗教につながっており、まことにスケールの大きな話である。
これまで述べた大洪水発生から、最後に万物が救済されるまでの流れを、〔図表①〕でまとめてみた。
○蒼生絶滅の話も
しかしながら、霊界物語には一方で、蒼生、つまり人々がすべて絶滅してしまう話もある。
金竜・国祖大国常立尊と銀龍・坤の金神のご活動で大地の形成が始まるが、やがて、神のご意思を実行する機関として人間が登場してくるものの、弱肉強食となった人間に邪霊が憑依し、世の中が悪化してしまう。
そして、国祖の大神が人間に警戒を与えるも改まらず、再び天地の修理固成が行われて、地球は大変動を起こし、叢生は全く滅びてしまうのである。
この大変動がノアの洪水で例えてあり、また、この後にできたのが、国祖のご肉体たる日本の国土である。
『そのさまあたかもノアの洪水当時に彷彿たるものであった』
(第一巻第二一章「大地の修理固成」)
また、第十五巻では曲津の島が沈められている。
『曲津神の棲む黄泉島はどうしても、海中に沈めてしまはねばならぬのだ』
(第十五巻第二七章「航空船」)
ちなみに玉鏡や新月の光には、黄泉島が「ム」大陸だとあり【註4】、霊界物語に書かれてあることが、俄然、現実味を帯びてくる。
【註4】新月の光は、昭一九・四・九/昭二一・三
なお、もとより人は、神のご意思の実行機関として、また、天国を円満ならしむべく【註5】神より作られたものであるが、その基礎となるこの世界がたとえ暗黒界になろうとも、それを憤り泥海としないよう、天地万有を創造された国祖の大神さまが忍耐を重ねておられる【註6】ご苦労を、我々は忘れてはならない。
【註5】第四十八巻第一二章「西王母」
【註6】第四巻第一八章「隠忍自重」
○大地の傾斜が消滅
さて、この傾いた大地が元に戻ることが、第十五巻に書かれてある。今から三千年後となる五十世紀においてである。
『大地の傾斜旧に復してより、今は御覧の如く低地は残らず湖水となり、唯高山の頂きのみ頭を現はし』
(第十五巻第二一章「帰顕」)
その経緯は示されてはいないが、大地の傾斜が元に戻って、低地が湖水に没している。
ところで、この場面は、五十世紀の神界におけるものであるが、時間についての観念が述べてある。
『神界に時間はありません。これも現界より見ての年数です』
(第十五巻第二一章「帰顕」)
時間のない神界で、現界から見た年数とあり、理解できそうで、できない感じが残るが、この第十五巻(第二○・二一章)に示されたことを〔図表②〕で整理してみたところ、実に整然としていた。
ここの場面は、言依別命らが、三十五万年前の現界から五十世紀の未来の神界の高天原に行き、神素盞嗚大神や国祖国治立命と対面するとともに、松彦から、五十世紀の世のありさまを知らされるところである。
○顕幽一致
さて、大地の傾きがなくなった五十世紀の状態が、次のようにも示してある。
『地上の世界は炎熱甚しく相成りたれば、今は罪軽き神人は残らず、日の御国に移住をすることになつてゐます』 (第十五巻第二一章「帰顕」)
この日の御国とは天国であろうから、移住とは帰幽になる。罪軽き者が天国へ、罪重き者が、炎熱甚だしい地上に残るということになる。
また一方で、顕幽一致により、現界と神界との行き来が自由であることも示されており、日の国への移住も、帰幽というほどに重く受け止める必要はないのかもしれない。
『顕幽一致、現界に住まってゐる人間の霊体が此高天原に遊びに来てゐるのだ』
(第十五巻第二○章「五十世紀」)
さらに、今、我々が使っているEメールが、未来の神界において使用されるかのような記述もある。ここにも、現界と神界とが入り混じった様子が見られる。
なお、その開始が「二十一世紀初期から」とあり、まさに我々が生きている現在で、その記述の細かさにも驚く。
『指先を以て空中に七十五声文字を記せば、配達夫は直に配達して呉れますよ。‥この交通機関は廿一世紀の初期から開始されたのですよ』
(第十五巻第二一章「帰顕」)
○ミロク人種
また、五十世紀の人間は、労苦を厭い、電車や自動車ばかりに乗って手足を使わなかったため、身長二尺で弱々しくなっているとある。また一方で、身長六尺以上の「ミロク人種」がいて、神の生き宮として活動していることが紹介してあり、しかもその活動は「現幽神界」の境を越えたものとなっている。
『併し乍ら、十九世紀の終りから二十世紀にかけて芽を吹き出した、三五教の教を信じ不言実行に勉め、労苦を楽しみとしてゐる人間の系統に限つて、夫れと反対に六尺以上の体躯を保ち、現幽神界に於て、神の生宮として活動してゐるミロク人種もありますよ』
(第十五巻第二〇章「五十世紀」)
また、この第十五巻では、二十世紀を「幼稚な時代」「魂の小さい人間が住まって居た時代」など厳しく指摘されているが、まさに、今の世は、われよし、つよいものがちの末法の世、泥海時代で、そうであるからこそ、国祖の大神さまや天祖の大神さまが、立替え立直しにより、みろくの世、黄金時代を開かんとされたところである。
そのご神業への奉仕、あるいは、神の生き宮たるの活動が、五十世紀の「ミロク人種」へとつながるとすれば、教えを信奉する者にとって、未来に対する大いなる希望であり、現在への揺るぎない自信ともなる。
今回、大洪水などの天変地妖が、人心悪化によることの整理が改めてできたが、『教えを信じ、不言実行で労苦を楽しめ』という神さまのメッセージは、我々の大いなる励みとなるものである。
なお、これと同様、人のあり方について、天地経綸の主体たることのお示しが、第五十六巻にある。私の好きな一節である。
『神様が人間を世界に創造し玉ふた使命は、決して人間が現界に於ける生涯の安逸を計らしむるが如き浅薄なものではない、人間は神様の目的経綸をよくよく考察して、何処までも善徳を積み信真の光を顕はし神の生宮、天地経綸の御使となつて三界の為に大々的活動せなくては成らないものである』
(第五十六巻 総説)
《追記》
○宣伝歌【註7】に、「思想の洪水氾濫し…ノアの方舟尋ね佗び…三五教の御諭しは最後の光明艮めなり」とあり、現代の思想の洪水に、御教えで救われる。
【註7】最後の光明(第十巻 総説歌)
○ノアの箱船が示された「旧約聖書」はユダヤ教の教典であるが、それを信奉するイスラエルの民の遺跡が、「記紀神話」の国生み最初の淡路島にあると聞き、昨年十二月二十三日、そこを訪れた。
なお、この遺跡の調査を、白山義高氏が出口王仁三郎聖師の命で行ったという。そうであれば、ここにも旧約聖書と記紀神話、そして、それらをつなぐ出口王仁三郎聖師の世界がある。
(平29・1・22記)
〔『愛善世界』平成30年8月号掲載〕
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