「神の子神の生宮たる吾々は、五六七神政出現のため、対外的戦備を取り除かねばなりませぬ」(64巻上5章「至聖団」)とのお示しに反し、安倍元首相は閣議決定で憲法解釈を変更し、「軍隊として戦争することになる」という、従前認められていなかった集団的自衛権の行使を一部容認した。
これは「軍閥で幾万の精霊を幽界に送った」(52巻24章「応対盗」)という同じ山口県出身で国葬となった山縣有朋が軍拡を進めたことに通じる。九月二十七日の安倍氏の国葬において、菅前首相が追悼の辞で、山縣に関する著書を安倍氏が読んでいたと語ったが、もとより安倍氏に、山縣を恃む気持ちがあったとすれば興味深い。
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九月二十六日の勉強会は、五十三巻一九章「刺客」から二一章「軍議」まで。特に二〇章「背進」での、バラモン将軍らの周章狼狽する心理描写は見事である。三五教の宣伝使に追われ、バラモン軍兵が逃げて来る。鬼春別将軍らは恐怖心にかられながらも、それを隠し、美女たちに愛想をつかされては大変と思い、敗走を「進軍」と言いながら逃げて行く。
恐怖心とは裏腹の言葉で、美女らへの体裁を作る保身的態度のバラモン将軍らの姿は、安倍派を「味方につける」ために国葬を決めた(朝日新聞9・27)岸田首相の保身的態度に似ている。
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勉強会前日の九月二十五日、熊本県山鹿市の瑞霊苑で平和祈願祭が行われた。出口信一先生が霊界物語勉強会とセットで、平成十四年(二〇〇二)に始められて今回が二十回目になる。私はそのほとんどに参拝しているが、山鹿・瑞霊苑と杖立温泉は、出口聖師の重要な経綸の地である。
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大正十二年八月、出口聖師は杖立温泉に滞在された。その折、旅館組合の人たちから贈られた百六十本の竹の杓子の表裏にお歌を書かれ、病気平癒のお取次ぎに用いる「御手代」とされた。
その日は、八月二十三日、旧暦七月十二日の出口聖師の誕生日で、杓子の裏に「此の杓子吾が生まれたる十二夜の月の姿によくも似しかな」とお歌を書かれている。表のお歌は「萬有の身魂をすくうこの釈氏心のまゝに世人す九へよ」で、ご飯を掬うと人を救うが掛けてある。
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その後九月二日、出口聖師は熊本県三玉村(現在の山鹿市)に行かれた。凡導寺にあった観音像に聖師が霊をかけられると盛んに動き出した。身長が五尺六寸七分、冠を除くと聖師と同じ五尺三寸であった。
出口聖師が弥勒最勝妙如来となる(入蒙記8章 「聖雄と英雄」)五十二歳の誕生日は、杖立温泉で「御手代」を出された日である。弥勒最勝妙如来となられた聖師が霊をかけられた観音像は「弥勒最勝妙如来像」と呼ばれている。また、向かいの「みろく岩」は、二巻で美山彦命がロッキー山に立てた「石神像」だと聖師は言われた。
なお、これらの内容を映像付きで、YouTubeチャンネル 藤井盛 大本講座「杖立・御手代歌碑とみろく神像」で紹介している。
(令4・9・29)
〔『愛善世界』令和4年11月号掲載〕
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