○思い出の写真
平成二十七年九月、皆神山祭典に参拝した。今から九年前になる。その折、当時四代教主御名代であった五代直子さまから写真を撮っていただいた。その写真を、二年後の平成二十九年十月に他界した妻の遺影とした。
また、祭典の折に私が拝読した霊界物語(十五巻一二章「一人旅」)を「YouTube藤井盛」で配信しているが、その写真をサムネイル(表紙)にしている。
参拝を当初、妻は強く拒絶した。長野県まで行くのだからと言ってもだめで、「お父さんの行くところは大本の所ばかり」といういつものフレーズであった。
結局、旅行を組むからと提案し、「じゃあ、白川郷に行くのなら」ということで了解した。
妻は、親の反対を押し切って農家の嫁に来た。新婚旅行が、坤の金神の隠退地喜界島。新婚早々いきなり、本部青年部長の教主生き神信仰への反対意見書を綴じる作業を、妻は私に手伝わされ、以後三十年、せっせと大本の信仰に専念する夫たる私。

妻は五十代で、三年にわたる病の私と末期癌の母親の世話をし、長野行きは、母親が逝き、その二年後に父親が逝ってまもない頃であった。「少しは私のことも考えてよ」と妻は言いたかったのだろう。
山口を出て金沢泊。バスで白川郷、夜は飛騨高山泊。富山に出て昼食、新幹線で長野へ。一泊しての祭典。名古屋経由で山口へ。三泊四日の長旅は新婚旅行以来であった。その二年後に終わる現界での妻のいい思い出になっただろう。
妻は未信徒の家から来て、神様を知り、家での朝拝も率先して行うようになった。瑞の御霊の大神のなし給う所により霊界に復活して行った。
○醜(しこ)草(ぐさ)を薙(な)ぎ払う
参拝した皆神山祭典のレポートが「爽秋のなか皆神山祭典」と題して、『愛善世界』誌平成二十七年十一月号に掲載されている。

祭典前日の特別研修講座で「お祭りの前に勉強しておくと、参拝の喜びが変わってくる」とある。これは、御教えの学びがなければ、正しい神観や宣伝使の使命も理解できないという今日的な課題につながって来る。
講座での出口聖師に関すること。お歌は私が加えた。
○明治三十一年、霊身で、富士山に次いで皆神山に来られた。
「山脈十字の信濃の国は永遠の礎神守る」(『故山の夢』仙境―二十八歳の春―)
○小幡神社での幽斎修業中、霊身で皆神山に登られ、伊都岐島姫命から十六神将を授けられた。
「汝れこそは瑞の霊の化身ぞや十六神将ささげまつらむ」(『霧の海』十六神将―二十八歳の頃―以下も同)
「三十年の後に用ふるたからぞと吾にたまひし劔たふとし」
○昭和四年、実際に登られて言霊奏上をされ、「霊界物語の地教山が皆神山に当たる」と示された。
ところで、前述のお歌に「三十年後に用いる劔」とあるが、出口聖師が皆神山に行かれた明治三十一年(一八九八)から三十年後とは昭和三年(一九二八)である。出口聖師が五十六歳七ケ月となられ、みろく大祭が行われた年である。また、伊都岐島姫命の別のお歌がある。
「葦原の中津御国の醜草を薙ぎ払ひませと宣らすかしこさ」
みろく様たる出口聖師が昭和三年になれば、劔を用いて醜草を薙ぎ払う御活動を始められるということが、すでに述べてある。こうした御活動の一環に当たるのか、出口聖師はみろく大祭後、四国から巡教の旅を始められ、昭和四年の信州巡教時に皆神山に登られている。
またレポートでは、私の霊界物語拝読にも触れてある。「勢いと情感が豊か」とあり、ありがたい。拝読箇所(十五巻一二章「一人旅」)について
○地教山は、高天原を追放された素盞嗚尊が母伊邪冊命より神勅を受け、救世贖罪神としての活動を開始された場所。
との説明がある。
○完全無欠の宣伝使
話は変わる。出口聖師が伊都能売御魂(弥勒最勝妙如来)となられた大正十二年から九十九年目に当たる令和四年九月、私は、熊本県山鹿市「瑞霊苑」の弥勒最勝妙如来像の前で、八雲琴を弾きながら基本宣伝歌を歌った。毎年行われる平和祈願祭の後である。
この基本宣伝歌が、霊界物語で最初に出るのは、地教山(=皆神山)が出て来る第五巻である。
国祖国常立尊の御隠退後、常世神王、盤古神王両陣営の争いにより世の中が乱れるなかで、国祖が野立彦命に、また、妻神豊国姫が野立姫と現れて、月照彦神などの宣伝使が救世の活動を始めることとなる。

そこでまず、天教山に集った宣伝使が野立彦命(=国祖)の教えを各地で唱え、ここで宣伝歌が出て来る。
「天教山…に鎮まり坐す木花姫命の招きにより、集つた神人…大八洲彦命…大足彦…言霊別命…は野立彦命の神勅を奉じ、天下の神人を覚醒すべく…世界の各地に派遣せられ…予言の言葉…『三千世界一度に開く梅の花、月日と土の恩を知れ、心一つの救ひの神ぞ、天教山に現はれる』」 (五巻一八章「宣伝使」)

続いて、宣伝使はヒマラヤ山で野立姫命(=豊国姫)の教えを学び、完全無欠の宣伝使となる。
「これよりヒマラヤ山に集まり、野立姫命の再び神教を拝受し…完全無欠の宣伝使となり、地上の世界を救済されよ」(二五章「姫神の宣示」)
そして、ヒマラヤ山が地教山となる。
『ヒマラヤ山は…高山彦、高山姫の専管…是よりヒマラヤ山を改めて地教山と称ふべし』
そして、この地教山が皆神山だと昭和四年に出口聖師が言われている。
歌集『故山の夢』で、出口聖師は二十八歳の頃、富士山(=天教山)にまず連れて行かれ、次が皆神山(=地教山)である。これは霊界物語で、宣伝使が天教山を経て地教山に至ったのと符合しているかのようである。
皆神山(=地教山)が、厳瑞二霊の御教えを学び、完全無欠となった宣伝使の宣伝・救済開始の場であったということである。改めて御教えの宣伝に一層努めなければならないと思う。
なお、現行の基本宣伝歌に近いものが、祝部神により歌われている。宣伝歌には天教山と地教山が入り、野立彦命(=厳霊)と野立姫命(=瑞霊)の厳瑞二霊の宣伝歌となっている。
『三千世界一度に開く梅の花 開いて散りて実を結ぶ 月日と土の恩を知れ この世を救ふ生神は 天教山に現はれる この世を教ふる生神は 地教の山にあらはれた 朝日は照るとも曇るとも 月は盈つとも虧くるとも たとへ大地は沈むとも 誠の力は世を救ふ 誠の力は世を救ふ』 (三〇章「真帆片帆」)
それと、登場する宣伝使の中で、祝部神が突出した活動力を発揮している。型から抜け出ている。こうでなければ闇の世は明けない気がする。
「祝部神はこの垂示を受取るや否や、酒宴の席に坐するのも憔かしがり、あわてて門前に飛び出し、一目散にヒマラヤ山を、ドンドンドンドンと四辺に地響きを立てながら下つて行く」(五巻二八章「地教山の垂示」)
○救世神・神素盞嗚大神へ
地教山(=皆神山)は、素盞嗚尊が救世贖罪神として活動を開始された場所である。霊界物語第五巻の宣伝使の場合と同様、ここでも地教山は活動開始の場である。私が拝読した第十五巻(一二章「一人旅」)で、母たる伊邪冊命が素盞嗚尊を諭す。

『数多の神人の罪汚れを救ふは汝の天賦の職責なれば、千座の置戸を負ひて洽く世界を遍歴し…天地に蟠まる鬼、大蛇…の心を清め、善を助け悪を和め、八岐の大蛇を十握の剣をもつて切りはふり、彼が所持せる叢雲の剣を得て』 (十五巻一二章「一人旅」)
この叢雲の剣は、草薙剣や都牟刈之太刀とも言われるが、救世主たる出口聖師ご自身を指している。
「救世主の身魂が、大蛇の中の尾なる社会の下層に隠れ…都牟刈之太刀とは言霊学上より解すれば三千世界の大救世主にして、伊都能売の身魂」(十五巻一一章「蛇退治の段」)
このことは、伊都岐島姫命の別のお歌にも通じる。
「姫神はおん声いともしとやかに劔の神よと宣らせ給ひぬ」(『霧の海』十六神将―二十八歳の頃―)
つまり、昭和四年に出口聖師が皆神山(=地教山)に登られたことにより、御自身が救世神たる素盞嗚尊とされる霊界物語の世界を、改めて現界に刻まれたことになる。
なお、霊界物語ではその後、救世神・神素盞嗚大神となって、斎苑の館で救世の御活動が本格的に展開されている。
「神素盞嗚の大神は、ウブスナ山脈の頂上斎苑の高原に宮殿を造り、四方の神人を言向和し給はむと…自らは表面罪人の名を負ひ給ひて、大八洲国に蟠まる大蛇、悪鬼、醜の神々を根絶せむと」 (十五巻一九章「第一天国」)
○(参考)一般社会の関心の高さ
皆神山は一般社会から不思議な山だと見られている。『月刊ムー』(二○二四年五月号)で、「世界最大最古のピラミッド! 長野県『皆神山』ピラミッド」との見出しで説明がある。

出口聖師の紹介あり
○地元の案内板に「皆神山は人工の山、ある種の重力制御により築かれた」とある。
○通産省の地質調査書のデータから、皆神山の地下に縦三キロ、横一・六キロ、高さ四百メートルの巨大空間が存在する。
○第二次世界大戦末期、旧陸軍参謀本部により大規模な地下施設の建設が行われた。
加えて
「王仁三郎は皆神山登山途中に八岐大蛇に打ち勝ち、山頂で言霊を発したという」
とあり、出口聖師の碑文が紹介されている。

(令6・12・13記)
〔『愛善世界』令和7年2月号掲載〕
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