⑥台湾時代の思い出

「愛善世界」誌掲載文等

                  大本山口本苑 多賀谷 紫さん      
                           (聞き手 藤井 盛)                 

 聖師さまは台湾に四度渡られるなど、台湾を大切にされていたが、台湾生まれである大本山口本苑の多賀谷(ゆかり)さんに、台湾時代の思い出を語っていただきました。            

多賀谷紫さん 平成21年5月台湾旅行の折、台湾での体験を披露された。
平成21年5月 台湾日月潭にて(左2人目紫さん)

◆お父さんは山口県萩市のご出身とお聞きしていますが。

 私の父、多賀谷富久(とみひさ)は、萩の商業学校を出て、南洋の島の酋長になるのだという大志を抱いて日本を出ました。その途中、お金を貯めるために台湾に寄り、小松商店という大きな店で働いているうちに、母の慶子を見初めていっしょになりました。

 一方、母は、台湾で生まれた三番目の日本人で、その父中村富次郎はキールン炭鉱を持っていました。また、台北の第一高女の第一回の卒業生です。

 ですから、私ども四人姉妹は全員台湾生まれです。私は昭和五年生まれで、私と姉純子(すみこ)はキールンで生まれ、妹の美穂子と()寿()()は台中で生まれました。

◆大本への入信の経緯を教えてください。

 父は、人類愛善新聞で大本を知り、毎日、新聞を家に持って帰っていました。その頃、大本は不敬だと言われていて、母は、こんな不敬な宗教に入るのなら、私は離縁してもらいますと初めは言っていたそうです。

 ところが、母は、毎日、人類愛善新聞を読むうちに、「あっ、これは不敬の宗教ではない。これは自分が間違っていた」と思ったそうで、母の方が大本に本気になりました。

 大正十二年頃に入信しましたが、お導きは、出口新衛先生のお父様で、弁護士をされていた高橋()(また)先生によるものです。大神様を奉祭したのは昭和七年頃です。

 ちなみに、高橋喜又先生は、台中の分所長をされていました。分所は大きな建物で、聖師さまがよくお泊まりになっておられました。それが縁で、聖師さまの五女の住之江さまと新衛先生がいっしょになられたのだと思います。

◆聖師さまの思い出がありますか。

 私の父は彰化(しょうか)支部長をしていました。私は覚えてはいないのですが、昭和五年と十年頃、聖師さまと二代さまが家に泊まられたことがあります。父もいっしょに写った写真があったのですが、残念ながら、敗戦で台湾を離れるとき、写真を日本に持って帰ることは禁じられました。

 また、父は宣伝使を拝命するため、台湾の七人の人たちと本部に行き、聖師さまから直接、御手代をいただいています。この御手代は我が家の宝となっています。

 父から聞いた話ですが、台湾に渡る人たちが、聖師さまのところに挨拶に行ったとき、聖師さまは「台湾の柱になれ」と励まされたそうです。

 聖師さまは、台湾から戦地へ出征する人たちの腹巻きに「(おん)敵勝利」と書かれていたとのことです。敵が勝利するってなんか変ですが、みんな無事に帰って来ました。

◆第二次大本事件では御苦労されたでしょうね。

 昭和十年の第二次大本事件のとき、警官が二、三人やって来て、家に土足で上がろうとしました。すると父が「人の家に土足で上がるな。馬鹿にするな」と怒りつけて、「不浄役人には渡されん。おまえらにはさわらせん」と言って、自分で神様のお宮を壊して、祝詞を上げながら庭で焼きました。警官たちは黙って見ていました。

 当時、私は五歳でしたが、恐ろしかったのでよく覚えています。なぜ、父が神様を焼くのだろうと思いました。ただ、お宮の中の御神体は母がどこかに隠していたそうです。

 父は警察に連れて行かれて、確か二日ぐらいは帰らなかったと思います。

 その後、お宮を買ってきて、今度は天照大御神の御札を入れて、祝詞を普通に上げていました。しかし実は、天照大御神の御札の裏に、大本の神様をお祀りしていました。また、御手代は、母がお米の中に突っ込みましたので、取られずにすみました。

 御神書の一部は、以前から台湾の信者さんに預けていたようですが、聖師さまの御著書をかなり持って行かれました。

 昭和十六年十二月八日に開戦となったとき、その日が大本が弾圧を受けた十二月八日と同じ日でしたので、十二月八日だと言って、父も母も泣きました。大本は型が出ると言いますが、ほんとに型が出ました。

◆空襲でのおかげ話があるとのことですが。

 昭和二十年頃、飛行機が空襲に来ても、母は防空壕に入らないで、御神前で祝詞をあげていました。家で働いていた台湾の人たちはそれを嫌がって、「あんな大きな声を出したら、飛行機に聞こえる。今に殺される」と言って、みんなが心配していました。

 ある日、母が大きな声で神言をあげている時、機銃掃射が始まりました。母は、もう防空壕には入れなかったので、自分はここで死んでもいいと思い、そのまま御礼拝を続けていました。

 そうしたら、機銃の弾が天井を突き抜け、母の横をサーッと通って、後ろへバーンと落ちました。母には当たりませんでした。神様に助けられたと母は言っていました。

 空襲が進み、十キロ爆弾や機銃掃射でよその防空壕はみんなやられていきましたが、うちの防空壕だけがなんともありませんでした。台湾の人は神様を拝むことを、パイパイと言いましたが、そのうち、「奥さん、パイパイやれ、パイパイやれ」と言うようになりました。

 また、小学校に入ったばかりの真寿美が、家でお昼寝をしていた時、突然空襲が来ました。母は防空壕に入ってから、家で真寿美が寝ていたのを思い出し、それこそ、機銃掃射がバリバリという中を防空壕から飛び出し、真寿美を玄関まで迎えに行きました。母親って強いですね。

 迎えに行って、母は、真寿美に布団をかぶせて、二人で玄関にじっと立っていました。その間、機銃はバリバリいうし、家のすぐ前の道路には十キロ爆弾も落ちました。こりゃあ、母も真寿美もやられたと思いました。

 しかし、飛行機が去った後、お母様って叫んで飛び出して行くと、玄関で二人とも布団をかぶってじっと立っていました。

 その時、家にあった聖師さまの観音像が、胸のところから真二つに、ピーッと割れていました。やっぱり、身代わりになっていただいたのだなあと思って、涙が出ました。

 このように、私どもは神様から助けていただいていますので、大本からは絶対に離れられないのです。

                                           (27・4・2記)
              〔『愛善世界』平成27年7月号掲載〕

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