○御神体「月山冨士」
私の家の御神体は、出口聖師自筆の「月山冨士」である。十二年前、ある信者さんの御親戚から出口聖師の掛け軸や色紙などをいただいた中にあった。
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不勉強で、初めはお山が描かれた色紙が御神体であることを知らず、我が家に来られた愛善苑の村山浩樹さんに御神体であることを教えてもらった。確かに『大本七十年史下巻』(七六三頁)にあった。もし教えてもらわなかったら、私の手から離れていたかもしれない。
その御親戚の嫁ぎ先のお母さんが信仰熱心ゆえに、出口聖師から多くのお作品をもらわれたようである。みごとな伊都能売観音もあった。
私にとってはありがたいことであったが、その御親戚は、出口聖師のお作品の数々を手放されたことになる。一方、三代様や日出麿先生の作品はどうかとの問いもあった。
みろくさまたる出口聖師の御神格がわからないのは、とんでもなく勿体ないことだが、それは単にお作品のことだけではなく、大本の御教え自体がわからないということである。せっかく大本の神様の御縁をいただきながら、とても残念なことである。もっとも「月山冨士」の御神体のことを知らなかった私も大きなことは言えないが。

○重要な昭和二十一年
御神体の「月山富士」を描かれた昭和二十一年は、出口聖師が後世にたいへん重要なことを残しておられる。出口聖師は、昭和二十一年の半ばから体調を崩され、翌二十二年からは寝たり起きたりであったという(『真偽二道』二六五頁)。そうであるからこそ、昭和二十一年に残されたものに、我々は出口聖師の強い御意思を感じるべきである。
なお、昭和二十一年には、鉢伏山開き(五月)や紀州巡教(七月)などがあるが、今回は特に本宮山を中心にして、主神の鎮祭や御神体、御神号奉唱に関することに焦点を当ててみた。


○本宮山に月山冨士
本宮山は、大本出現のきっかけとなる舞台である。桶伏山(=本宮山)の蓮華台上で、神素盞嗚大神と国祖国常立尊の分霊国武彦命が、三十五万年後の再会を約束されている。
「神素盞嗚大神、国武彦命…桶伏山の蓮華台上に…密に依さし給ひ、ミロク神政の暁迄三十五万年の其後に再会を約し」(十六巻六章「石槍の雨」)
平成三十年一月、私は京綾部ホテルから本宮山を写真に撮った。まさに「桶伏山」というにふさわしい山の形である。

出口聖師は、この桶伏山たる本宮山に主神の光を仰ぐというお歌を、歌集『月照山』に詠まれている。第二次事件で保釈後の昭和十七年十一月から十九年十一月の間である。
「とこやみのよを照らさんと主の神の光を仰ぐ桶伏の山」(『月照山』一三三三)
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そして、昭和二十一年三月から本宮山に月山冨士を築き始め、六月に完成している。
「綾部鶴山の山上では聖師の指揮のもとに、破壊された長生殿の基礎の上に、窮天閣その他の破壊された礎石などの石片をよせあつめ、これに土をかぶせて月山冨士を築くこととなった」(『大本七十年史下巻』七四二頁)
なお、事件前の本宮山の絵が『大本七十年史下巻』の見開きにある。長生殿の十字の基礎や穹天閣などが描かれている。
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出口聖師は、主の神の光を桶伏山に仰ぐとお歌に詠まれ、それを、本宮山に月山冨士を築いて主神を祭ることで現実化された。

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しかも、第二次事件の大弾圧の苦労を経た上での主神一柱の鎮祭である。真の神は主神一柱だという出口聖師の御霊たる神素盞嗚大神が示した「山上の神訓」が、現実の中でより重みを増す。
「無限絶対無始無終に坐しまして霊力体の大元霊と現はれたまふ真の神は、只一柱在す而已。之を真の神または宇宙の主神といふ」(六十三巻四章「山上訓」)
なお、月山冨士の頂上には冨士山大噴火(八○二・延歴二一)で落下したという霊石が鎮めてあり、月山冨士は、綾部での至聖所とされている(『大本七十年史下巻』七四二頁)。
○七夕祭と大天主太神(おほもとすめおほみかみ)
八月三日から一週間、月山冨士が完成した本宮山上で、献灯礼拝(七夕祭)が行われている(『大本七十年史下巻』七四四頁)。

なお、本宮山で行われる七夕祭の重要性が、『玉鏡』や『伊都能売神諭』に示してある。
「旧七月六日の晩から同十二日にかけて…神々様が地の高天原に…集われて一カ年中の経綸について神議」(『玉鏡』再び七夕祭について)
「綾部の神宮本宮…五六七の大神様が…天を固めに御上り遊ばした霊場…天地の神々が昇り降りをされ、集会や相談」(『伊都能売神諭』大正八年三月一日号)
今年の七夕祭の最終日が九月三日に行われ、私も参拝した。瑞生大祭後である。本宮山を仰ぎ、五代教主直子さま先達により神言を奏上した。その折、五代教主直子さまは御神号を
「大天主太神守り給へ幸倍給へ」(二回)
「惟神霊幸倍ませ」(二回)
という主神の御名のみを奉唱された。まさに主神を祭る月山富士に対する御神号奉唱であった。

さて、昭和二十一年六月四日の月山冨士完成後、出口聖師は、月山冨士を色紙に描いた「月山冨士」を御神体として下付された。私は家でのお礼拝の折、御神体の「月山冨士」を通じて、本宮山の月山冨士に主神が降臨されるイメージをいつも抱く。
また、十月十八日には真神の表現が「大天主太神」と決まる。霊界物語口述開始の大正十年十月十八日から二十五年目の日である。
さらに十二月八日には、御神号が主神の御名のみの奉唱に決定された。これも大本第二次事件勃発の昭和十年から十一年目という重要な日である。
こうした流れは、月山冨士に主神が鎮座されてからの当然の結果というべきである(『大本七十年史下巻』七六三・七六四頁)。

○至聖先天老祖
さて、御神号に道院の「至聖先天老祖」も奉唱しているのはなぜか。道院とは大正十二年から提携関係にあるが、『大本七十年史下巻』八四七頁)に

「天恩郷では、毎月…道院の老祖神の月次祭がおこなわれ…これは道院の神だけでなく、各宗祖の月次祭として世界平和実現を祈願するまつり…『おほもとすめ大御神守り給へ幸へ給へ』のつぎに『至聖先天老祖守り給へ幸へ給へ』と奉唱」とある。また『救世の船に』(出口信一先生講演録一六三頁)にもこうある。

「道院を聖師様は五大教(至聖先天老祖の下に、道教・仏教・基教・回教・儒教の五大宗祖を祀る)と言っておられます」
つまり、道院は単に一つの宗教ではなく、五つの世界宗教をまとめた宗教ということである。道院の神「至聖先天老祖」を唱えることは、五つの宗祖を唱えることとなり、それは世界平和実現の祈願になるということである。
なお、出口聖師は「至聖先天老祖」を「大国常立尊」(『大本七十年史下巻』三一頁)、つまり主神だと言われている。つまり、二神を奉唱しても主神の御名のみの奉唱ということになる。

〔あとがき〕
霊界物語の拝読を録音したものを「YouTube藤井盛」でネット配信しているが、二十年前、その拝読の録音を本宮山に登り、月山富士の前で行ったことがある。蜂が月山冨士に巣を作って飛び回り、ずいぶん荒れていた。昔はきれいに整備されたなかを巡拝していたのだが、見る影もなかった。荒れた至聖所の有りさまが、現在の大本の乱れとして映っているのだろうか。
(令7・9・17記)
〔『愛善世界』誌令和7年12月号掲載〕


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