㊲-2 聖師の御神格を隠して来た歴史(2)

「愛善世界」誌掲載文等

開教百年目の霊界物語

〇聖師の御神格隠しが極まる   「三代教主伊都能売御霊論」

 「聖師を救世主とは言わない約束」は、なおも続く。その極め付きが、聖師の御神格を三代教主に置き換えたことである。

 昭和二十九年十月二十九日の全国主会長会議において、総長の伊佐男氏は「三代教主は伊都能売御霊であり、開祖や聖師、二代の生きた現れ、過去の凡ての教御祖の現れである」という挨拶をされ、三代教主を伊都能売御霊としたのである。私は以下、これを「三代教主伊都能売御霊論」と呼ぶことにする。

 「四魂揃った活動は伊都能売の活動であり、直日先生はこの伊都能売の神格と活動をなされている…直日先生は二大教祖の道統を継承され言わば現に生きていられる開祖様、聖師様、二代様であり…直日先生を過去の凡ての教御祖のお現れであるとの絶対的信仰」
   (昭和二十九年十月二十九日、主会長会議 出口伊佐男総長挨拶)

 つまり、三代様を「伊都能売御霊」として前に立てて、その陰に聖師の「伊都能売御霊」、「救世主」たる御神格を隠そうというのである。「聖師を救世主とは言わない約束」をより強力な手段で貫こうとしたのである。

 ところで、先に、聖師がみろく下生たることの教典上の根拠を示したが、同時に聖師が厳瑞二神を合せた伊都能売神であり、それは肉体を具備した神であることの霊界物語上の根拠を示しておきたい。

 ◆ 太元顕津男(おほもとあきつを)の神は大太陰界に鎮まり給ひて至仁至愛(みろく)の神と現じ給ひ、数百億年の末の世迄も永久(とこしえ)に鎮まり給ふぞ畏けれ。 

 至仁至愛の大神は数百億年を経て今日に至るも、若返り若返りつつ今に宇宙一切の天地を守らせ給ひ、今や地上の覆滅せむとするに際し、瑞の御霊の神霊を世に降して更生の神業(みわざ)を依さし給ふべく、肉の宮居に降りて神代に於ける御活動そのまゝに、迫害と嘲笑との中に終始一貫尽くし給ふこそ畏けれ。

 ◆ 大太陽に鎮まり給ふ大神を厳の御霊と称へ奉り、大太陰界に鎮まりて宇宙の守護に任じ給ふ神霊を瑞の御霊と称へ奉る。厳の御霊、瑞の御霊二神の接合して至仁至愛神政を樹立し給ふ神の御名を伊都能売神と申す。

 即ち伊都は厳にして火なり、能売は水力、水の力なり、水は又瑞の活用(はたらき)を起して茲に瑞の御霊となり給ふ。紫微天界の開闢(かいびゃく)より数億万年の今日に至りていよいよ伊都能売神と顕現し、大宇宙の中心たる現代の地球(仮に地球といふ)の真秀良場(まほらば)に現れ、現身(うつせみ)をもちて、宇宙更生の神業(みわざ)に尽し給ふ世とはなれり。 

  われは今伊都能売の神の功もて
      曇れる神代(みよ)(てら)さむと思ふ
      (第七十三巻第一二章「水火の活動」) 

 ちなみに、松本清張氏の絶筆「神々の乱心」は、時代背景を第一次大本事件から入蒙あたりに置いて、大本をモデルとして書かれたものであるが、聖師のみろく下生が積極的に著されている。

 「ミロクの霊を()けた『聖師』出口王仁三郎」(上巻17頁)・「弥勒の下生」、「弥勒が王仁三郎」、「弥勒が現世に現れたのが王仁三郎」(下巻67頁)・「弥勒下生達頼喇嘛(ダライラマ) 素尊(ハン)」(下巻69頁)

 このような記述が大本関係ではなく、一般書籍にあることに驚かされる。

松本清張著「神々の乱心」
~弥勒が王仁三郎~

 もっとも、清張氏のいとこの山川京子氏が大本信者で、東京で支部長であったと聞くが、聖師のみろく下生たることを世に伝える清張氏は、立派な大本の宣伝使と言うべきである。

○土井氏の反論文と三代様

 この伊佐男氏の「三代教主伊都能売御霊論」に土井靖都氏が反発され、その反論文の一節で明らかになったのが、本稿冒頭の「聖師を救世主とは言わない」という約束である。

 そして、この約束部分に続いているのが次の文章である。これを要約すると「聖師を救世主とは言わないという約束であったのに、こともあろうに三代様を伊都能売御霊にしてしまった。伊都能売御霊とは聖師お一人のことである。聖師が救世主であることを否定してしまっては、大本は崩壊してしまう。くやしくて夜も眠れない」となる。

 「今日三代様を突如として伊都能売の御魂にまします事が宣旨されました」「厳瑞二霊を合せ給える事が即ち伊都能売の御霊であらせられ、これは聖師御一人の特色の事」「聖師救世主否定の意義を持ち来すものとすれば‥大本教団の崩壊を持ち来する」「眠りなりがたきこと幾夜」 

 しかし思うに、三代様こそいい迷惑である。御自身が聖師の盾にされて、聖師の御神格を理解する者たちからの非難を、その身でお受けにならなければならなくなったのである。

出口和明著
『第三次大本事件の真相』

 ところで三代様御自身はどうかというと、自らが生き神にされることを否定されている。また、信者が自分に見せる態度が侮蔑的であり、けっして生き神とは思っていないことを自覚されているのである。

〔生き神の否定〕
 「この世を作られた生神さまと同じように思われてはいやですね」
 「私は開祖さま、聖師さまほど偉くないですよ」
   (『おほもと』誌昭和四十七年一月号 出口和明著『第三次大本事件の真相』一八三頁)

〔信者の侮蔑〕
 ・吾がことをロボットと噂されゐるを知らざらむ厳しき手紙今日は受けたり
 ・吾が夫に面会して帰りゆく人あり吾を見ながら知らぬ顔して
 ・働きて食えよ教主の値打なしと奉仕者らしきが手紙寄越しぬ
   (歌集『西王母』昭和三十九年発行)

 ところで、伊都能売御霊とされた三代様と伊佐男氏の信頼感の強さについて和明氏の描写がある。昭和四十八年五月六日に伊佐男氏は亡くなられるが、その直前の五月二日に三代様が見舞われた時の様子である。

 「二日、直日先生が見舞いにこられるとの知らせに、父は朝からひげをそらせ、寝巻を着かえ、身辺を正して待ちかねる。教主さまと会った瞬間の父の目の輝やきは、うって変って、まるで別人であった。これが重態の病人の瞳であろうか」   (『松のひびき』一一七頁)

 また、伊佐男氏の入院中の三月八日に、三代様が伊佐男氏を大本教主補佐に任命されたことや、亡くなられる二日前の五月四日に子の和明氏を斎司にして伊佐男氏の後を継がせると言われたこと、また、伊佐男氏が亡くなられた昭和四十八年の八月、松山での歌碑除幕式に、和明氏が教主御名代で出席されたことも、三代様の伊佐男氏への信頼の厚さを反映したものと思われる。

 よって三代様は、御自身が聖師の盾となって伊都能売御霊にされることも納得されていたのではなかろうか。

〇大本教法も聖師の御神格隠し

 土井氏は反論文の中で「聖師を救世主とは言わないこととなっていた」ことに続いて、大本教法にも次のように触れている。この私の原稿の一頁目の土井氏の原文にもある。

  「大本教法には論議の結果に於て、…聖師を単に瑞霊と記され」

 土井氏は、「聖師を救世主とは言わない約束」の下で大本教法が定められ、聖師を単に瑞霊とのみ記したと証言している。つまり、大本教法は聖師の救世主たる御神格を隠したまま定められたということである。

 大本教法の制定は昭和二十七年で、昭和二十三年の聖師葬儀の誅詞(しぬび)と昭和二十八年の「みろく下生」のない「聖師伝」の間にあり、時期的にも「聖師を救世主とは言わない」という流れの中にある。

〈聖師の御神格を隠してきた歴史〉

昭和二十年十二月 大本事件解決奉告祭挨拶
 「事件は我々(聖師)が悪かったから起きた」

昭和二十三年一月 聖師の葬儀の誅詞(しぬび)
 「聖師を救世主とは言い切らず」

昭和二十七年四月 『大本教法』 
 「聖師を単に瑞霊と記すのみ」

昭和二十八年四月 『聖師伝』発刊
 「昭和三年三月の「みろく下生」なし」

昭和二十九年十月 主会長会議
 「三代教主伊都能売御霊論」

昭和二十九年十一月 土井靖邦氏反論
 「聖師を救世主とは言わない約束

 ところで、梅園浩氏が昭和五十七年の大本山口本苑での講話のなかで、戦後のGHQ占領下と教法制定について述べておられる。

 「自分は教典を定義する教法第七条の制定に携わったが、霊界物語をそのまま教典として出して三度目の弾圧を受けると困る。そのため、安全装置として『教主の裁定』という言葉を入れ、また、一部を霊界物語から抜き出し、用心しながら小説として出した」(要約)

 監視組織が、特高からGHQに替わったとしながらも、教法制定当時、当局による再弾圧を意識していたという重要な証言である。「聖師の御神格を隠す約束があるなかで教法が制定された」とする土井氏の主張の裏付けとなるものである。

〇再弾圧への警戒が高まった昭和二十九年

 さて、戦後愛善苑発足以来の、聖師のご神格隠しの流れの中で「三代教主伊都能売御霊論」の打ち出しはあまりにも度が過ぎている。

 伊都能売御霊が聖師であることは、先に関係箇所を示した霊界物語のみならず、伊佐男氏自身にも触れた箇所がある『錦の土産』【注11】を見れば明白である。それを三代様に置き換えてしまうのは、余程の理由があったはずである。

 これを解明するかのような動きがある。

 まず、「三代教主伊都能売御霊論」が出たのと同じ昭和二十九年、元京都府特高課長杭迫軍司氏が、月刊『現代人』の七月号から反大本の原稿を掲載し始めている。『現代人』の編集者は後に大本総長となる宇佐美龍堂氏で、杭迫氏のペンネームは亀谷和一郎。表題は「宗教界の野望―大本教―」である。

亀谷(杭迫)氏、土井氏、伊佐男氏の名前が並ぶ月刊「現代人」(昭和29年11月号) 

 そして、これを受けたかのように、十月二十九日の主会長会議で伊佐男氏により、突如「三代教主伊都能売御霊論」が打ち出されたのである。さらに、この伊佐男氏の論に対して、本稿冒頭の土井氏の反論文が出たのが十一月六日付けである。

 ところで、『現代人』の同年十一月号を見ると、杭迫氏(亀谷)の第五回目の反大本原稿に併せて、杭迫氏の原稿に対する土井氏の反論文が掲載されている。そして何より注目すべきは、その土井氏の反論文掲載を伊佐男氏が依頼していることである。伊佐男氏が杭迫氏と土井氏の仲立ちという形で、三者の名前が『現代人』昭和二十九年十一月号に並んでいる。

 大本幹部の伊佐男氏と元特高課長の杭迫氏とは第二次事件のなかで、逮捕や拘留、取り調べなどを通じて、当然、お互いの顔を見知った関係であったことは言うまでもなかろう。

 さて、ここからが私の推測である。

 杭迫氏の「反大本」原稿の『現代人』掲載が、昭和二十九年七月号であるが、この年の三月、第五福竜丸が米国の水爆実験で被ばくする事件が起こっている。

 これに大本はすばやく反応し、原水爆反対の署名運動を全国に展開し、六月には百六十万人もの署名簿を 国連事務総長へ送っている。旧弾圧側はこの大本の全国的な社会運動から過去の大本の全国的な「昭和神聖会」運動を連想し、危険と感じたのではないか。そして、急に『現代人』七月号から杭迫氏の「反大本原稿」の執筆が始まったのではないだろうか。

「第五福竜丸展示館」NHK「おはよう日本」 (平31.4.19) 

 ところで、この反対署名運動の中心を担った出口榮二氏が、伊佐男氏が「三代教主伊都能売御霊論」を挨拶で述べた十月二十九日に合わせるかのように、十月二十七日付けで副総長の職を更迭されている。

出口榮二氏副総長更迭と伊佐男氏の
「三代教主伊都能売御霊論」が載る「愛善苑」誌
(昭和二十九年十二月号)

 この榮二氏の更迭のことが、伊佐氏の挨拶と合わせて「愛善苑」誌十二月号に載っているが、更迭理由が「対外的活動に忙しく内部事務がおろそかのため」という「こじつけ」のようなものである。

 しかも、榮二氏の活動について「東奔西走している」とのみあるだけで、全国的署名運動や国連への署名簿の送付などの原水爆反対運動には全く触れていない。つまり、無視というか、大本とは無関係を装っているとしか言いようのない扱いである。

 あたかも旧弾圧側の杭迫氏の反大本の主張を受け入れたかのように、大本の社会的活動が封じられてしまったのである。

 この昭和二十九年の動きを整理してみる。

〈昭和二十九年〉

三月 第五福竜丸が水爆実験で被ばく。出口榮二氏を中心に反対署名運動を展開。
六月 百六十万人の署名を国連事務総長へ送付。
七月 元特高課長杭迫氏が『現代人』に反大本原稿の掲載を開始
十月二十九日 主会長会議で伊佐男氏が「三代教主伊都能売御霊論」を発表。
    榮二氏副総長更迭(二十七日付け)
十一月六日 土井氏が伊佐男氏の論へ反論
   (日付不明)杭迫氏に対する土井氏の反論文の『現代人』への掲載を、伊佐男氏が宇佐美氏へ依頼
   『現代人』十一月号 杭迫氏の反大本原稿(五回目)と杭迫氏へ対する土井氏の反論文掲載。

 大本の全国的運動に旧弾圧側が反応。その旧弾圧側に対応して榮二氏が更迭されるとともに、伊佐男氏の「三代伊都能売御霊論」が発表されている。これを見ると、大本の動きが再弾圧への警戒感を極度に高めたものであるとともに、旧弾圧側にも、弾圧めいた考えが戦後もなお継続していたと想像することは容易である。

 戦前の大本の活動は、聖師の「みろく下生」たる教義を基に昭和神聖会等の社会運動が展開されたのであるが、これを国体保持の観点から当局が弾圧したものである。第一審判決を見ると大本を「大本教義に基づき国体変革をなすもの」【註12】として、国体変革の基となる教義を危険視している。

 大本が聖師の「みろく下生」たる教義を持ち続ける限り、弾圧側と弾圧される側の構図が、戦後もなお続くことを伊佐男氏や幹部役員が認識していたため、その教義を封印してきたということである。

 しかし、そうした弾圧・被弾圧の構図が、この昭和二十九年に一気に表に出たため、再弾圧を避けるために、より強い聖師の御神格隠しとしての「三代教主伊都能売御霊論」が必要となったのである。

 つまり、「三代教主伊都能売御霊論」は再弾圧防止対策としての方便、旧弾圧側に対する「カモフラージュ」ということである。このように私は推論する。

 【註11】『錦の土産』
 「伊都能売の御魂霊園の天人なる大八洲彦命の精霊を充たし瑞月の体に来たりて口述発表したる霊界物語は、世界経綸上の一大神書なれば、教祖の伝達になれる神諭と共に最も貴重なれば、本書の拝読は如何なる妨害現はれ来るとも、不屈不撓の精神をもって断行すべし、例へ二代三代の言と雖も、この事のみは廃すべからず。邪神界殊に八十八派の兇徒界の妖霊は一応尤もらしき言辞を弄し、月の西山に入りたる際、得たり賢しと聖地へ侵入し来り、先ず第一に二代三代の身魂を誑惑せんと雄猛び襲ひ来るべし」

    (『錦の土産』大正十二年旧十月十三日)

 【註12】大本第二次事件 第一審判決
 「万世一系の天皇を奉戴する大日本帝国の立憲君主制を廃止して、出口王仁三郎を独裁君主とする至仁至愛の国家建設を目的とせる大本と称する結社を組織…昭和三年三月三日が…みろく大祭を執行し…大本教義に基き我国体を変革することを目的とする結社を組織し」

   (原文カタカナ)

○なお続く再弾圧への警戒

 その十年後の昭和三十九年二月に刊行された『大本七十年史』編さん当たっても、なお再弾圧への警戒が続いている。聖師の「みろく下生」たる教義は封印されたままである。

 ◆出口伊佐男  「人間出口なお、人間出口王仁三郎といったようなたて前から、神霊感応と相応じて人間的に改造させられながら大成してこられた」 

 直日全くそうですもの。…信者さんは、あまりよろこんでないでしょうけど」
   (『宗教文化は誰のものか』永岡 崇)

 ◆「開祖さまや、聖師さまのお示しになったご業績も、これを冷厳に史学の(まなこ)でとらえ、あたうかぎり、人間の問題として取りあつかわれています…宗教の大切な要素である〝奇蹟〟とか〝神格〟の叙述について、もの足りなさをかこたれるかも知れません…ある時は傷ついた、苦い体験の記録である」                          
   (「『大本七十年史』によせる」 出口直日)

 三代様の「傷ついた、苦い体験」とは第二次事件のことであろう。三代様の事件体験は過酷で、それ故か、昭和二十年十二月八日の事件解決報告祭にも参拝されていない。その過酷さは、次に示した悲痛な短歌【註13】や昭和三十七年九月の出口榮二氏総長更迭事件での発言「私のねがい」【註14】にもうかがうことができる。

 再弾圧への警戒のための対策として「聖師の御神格隠し」が行われたということのみではなく、その警戒感が、三代様の実体験に基づいた感情的で根強いものであったことは否めない。『現代人』昭和三十一年七月号に、三代様の『現代人』訪問【註15】の記載があるのも、再弾圧への警戒の一環と考える。

 なお、榮二氏総長更迭事件は、昭和三十七年七月のモスクワにおける軍縮平和会議に出席された榮二氏が、帰国後の九月、総長の座を更迭されたものである。また、この更迭を三代様に勧めたのは昭和七年に聖師に引退を迫った大島豊氏で、大島氏を三代様に引き合わせたのは伊佐男氏【註16】だという。これも再弾圧を防ぐための一環であったのだろう。

【註13】短 歌
 ・死にたしと吐息もらせばをさな子は死ぬなといひて膝によりくる

    (『ちり塚』昭和二十八年発行)
 ・夫の名を呼びておもひきり揺すぶりなば或ひは正気に帰りまさむか (同)
 ・逆賊と呼ばれし過去ある吾にして明智光秀の城跡に住む  (『西王母』昭和三十九年発行)
 ・治安維持法違反に問われ亡き母は還暦の日を獄にいましき        (同)

【註14】三代教主「私のねがい」 
 「私たちのお道には、かつて昭和神聖会というのがありました…私はこの運動に真向うから反対しました。…社会の目は昭和神聖会を政治運動のような形でとらえました。そしてそのことが第二次事件をひきおこす大きな要因になりました。…大本事件は私たちに深い傷手を与えました。その時に受けた生々しい傷痕は多くの人達の胸に残り、いまなお消え去ってはおりません

     (『おほもと』昭和三十七年八・九月合併号) 

【註15】月刊『現代人』を三代様が訪問
      (『現代人』昭三十一年七月号編集後記)

【註16】戦後愛善苑発足より愛善苑を応援してきた京都の宗教誌『中外日報』の記事
 「出口伊佐男(故人)が、昭和三十七年に出口栄二氏(次の四代教主となる出口直美教嗣の夫君)を総長の椅子からおろすために、全精力を使った」

      (『中外日報』昭和五十六年七月二十四日号)

『現代人』昭31年7月号「編集後記」

(令和元年11月23日記)

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