~浄土真宗と霊界物語~
出口信一先生の講演集「救世の船に」の巻頭に、霊界物語第六十七巻第五章「浪の鼓」の一節が記してある。花香姫が大神の神徳を讃美した歌の一つである。
救世の聖主に遇ひ難く
瑞霊の教聞きがたし
神使の勝法聞くことも
稀なりと云ふ暗の世に
聴くは嬉しき伊都能法
〔第六十七巻第五章「浪の鼓」花香姫 午〕
救世主たる瑞霊に遇うことも、またその御教えを聴くことも稀な闇の世であるのに、それがかなう喜びを歌ったものである。
姉のヨリコ姫もまた、苦しみの中にある我々を救う主神 伊都能売大神を讃美している。
生死の苦海は極み無し
久永に沈める蒼生は
伊都能売主神の御船のみ
吾らを乗せて永遠の
天津御苑へ渡すなり
〔ヨリコ姫 午〕
出口王仁三郎聖師の絵が、講演集「救世の船に」の表紙に用いられている。海に浮かぶ船が描かれ、我が家にも同様の色紙がある。大神による救いが船で象徴してあるのだと思う。また、第五章「浪の鼓」の末尾には「救世の御船」とも記されている。
ところで、第五章「浪の鼓」には、花香姫とヨリコ姫の歌がそれぞれ十二ずつ、合計二十四ある。実はそれらの歌は、浄土真宗の開祖親鸞聖人が著した和讃【註1】を本歌としている。例えば、ヨリコ姫の歌の本歌は次のとおりである。
生死の苦海ほとりなし
ひさしくしづめるわれらをば
彌陀弘誓のふねのみぞ
のせてかならずわたしける
〔高僧和讃 龍樹菩薩七〕
私は、霊界物語の二十四の歌と和讃の本歌との対比表を作成した。二つを除いた二十二の霊界物語の歌について、和讃の本歌を明確に確認することができた。
【註1】仏祖・高僧の教法や徳行を讃歌したもの。「浄土和讃」「高僧和讃」「正像末浄土和讃」「太子和讃」「別和讃」など…『親鸞和讃集』 (岩波文庫)
〇善と悪は水と氷の如く
さて、ヨリコ姫に次の歌がある。
愛と善との神徳と
虚偽と悪との逆業は
水と氷の如くにて
氷多きに水多し
障多きに徳多し
〔ヨリコ姫 卯〕
善と悪とが水と氷とに対比され、しかも、悪に対応する氷が多いほど愛と善の神徳が多いとある。これは一体どういうことなのか。以前から私は、この歌の意味がよくわからなかった。本歌となる和讃は次のとおりである。
罪障功徳の體となる
こほりとみづのごとくにて
こほりおほきにみづおほし
さはりおおほきに徳おほし
〔高僧和讃 曇鸞和尚二○〕
岩波文庫の『親鸞和讃集』には、こう解説がしてある。
罪障が功徳の本体となる。それは罪障と功徳の関係は氷と水の如く一体である。氷が多いので水が多い、そのように罪障が多いので功徳が多い。(罪障=煩悩によって作る罪業)
和讃は氷たる罪障を主体に、一方、霊界物語は水たる愛善の神徳を主体に説いているのではないか。第七十二巻第七章「鰹の網引」に、これと似たことが説いてある。
「改心すれば、盗賊であった者の方がより信仰が進んでいる」と宣伝使は述べる。
照国別「ヤアこの玄真坊殿はずゐぶん悪い事も行つて来たが、お前に比べては余程信仰が進んでゐるよ、すでに天国へ一歩を踏入れてゐる」
照公「それや又どうしたわけですか。吾々は未だ一度も大した嘘もつかず、泥棒もせず嬶舎弟もやらず、正直一途に神のお道を歩んで来たぢやありませぬか。
それに何ぞや大山子の張本、勿体なくも天帝の御名を騙る曲神の権化ともいふべき行為を敢てした玄真坊殿が天国に足を踏込むとは、一向に合点が行きませぬ」
〔第七十二巻第七章「鰹の網引」以下同じ〕
正直一途の自分より、どうして曲神の権化が天国に足を踏み込んでいるのかという照公の疑問は当然と思える。宣伝使の照国別は続けて言う。
照国別「大なる悪事を為したる者は悔い改むる心もまた深い。真剣味がある。それゆゑ身魂相応の理によつて、直ちに掌をかへすごとく地獄は化して天国となるのだ。
沈香も焚かず庇も放らずといふ人間に限つて、自分は善人だ、決して悪い事はせないから天国に上れるだらうなどと慢心してゐると、知らず識らずに魂が堕落して地獄に向かふものだ」
大なる悪事をした者ほど改心の度合いが大きいので、相応の理【註2】によって天国に上れるというのである。我々は、普通、悪いことをしなければ天国に上れると思うのだが、そうではなく、かえって魂が慢心によって堕落してしまうというのである。さらに
「悪い事をせないのは人間として当然の所業だ。
人間は凡て天地経綸の主宰者だから、此世に生れて来た以上は、何なりと天地のために神に代るだけの御用を勤め上げねばならない責任をもつてゐるのだ。
その責任を果す事の出来ない人間は、たとへ悪事をせなくとも、神の生宮として地上に産みおとされた職責が果されてゐない。それだから身魂の故郷たる天国に帰ることが出来ないのだ」
人は何より天地経綸の主宰者たるの職責を果たすことが重要で、たとえ悪いことをしても改心すればよく、何もしないことが一番よくないということである。
【註2】第四十七巻第二一章「跋文」
○大女帝ヨリコ姫の改心
この曲神の権化たる玄真坊が仕えた山賊の大頭目であったのが、ヨリコ姫である。このヨリコ姫が改心し、大神を讃美するまでになっている。まさに水と氷との善悪の喩えを、自ら実践した人物である。
では、どうすれば改心できるのか。自らの罪業を知り、瑞霊の教えに身を任せればいいとヨリコ姫は歌う。
吾が罪業を信知して
瑞霊の教に乗ずれば
すなはち汚穢の身は清く
全天界に昇往し
法性常楽証せしめ給ふ
〔第六十七巻第五章「浪の鼓」ヨリコ姫 酉〕
では、実際にヨリコ姫はどう改心に至ったのか。その軌跡を追ってみる。
まず、第六十六巻第八章「神乎魔乎」に、天成の美人ヨリコ姫について余すところなく描写されている。
かれヨリコ姫は梅花の唇、柳の眉、鈴をはつたやうな眼、白い顔の中央に、こんもりとした恰好のよい鼻、白珊瑚の歯の色、背は高からず低からず、地蔵の肩…
〔第六十六巻第八章「神乎魔乎」以下同じ〕
というように、顔からさらに全身へとくまなく描写が続く。この続きを書くには少し恥ずかしい箇所があるので、各自お読みいただきたい。
そして、「歩行する姿は春の花の微風に揺れるがごとく、縦から見ても横から見ても、どこに点の打ちどころのない嬋娟窈窕たる傾国の美人であつた」と結ばれている。このヨリコ姫が野心を抱く。
・「如何にもして自分に勝る逞しい、雄々しい男子と結婚して見たいとの念慮」でバラモン教の修験者玄真坊を「普通の男子に比ぶればチツとは男らしい」と見定め、「天下を驚かすやうな大賭博が打つて見たい」と「玄真坊を口説き落とし」十八才で、家を抜け出し、
・「表面に柔順と貞淑を粧ひ」、「表面あらゆる媚を呈し」、「三千人の悪党輩を利用してトルマン国を吾が手に入れ」「月の国七千余国の大女帝となり、驍名を天下に輝かさむ」との大陰謀の豺狼の心を深く包んで時を待ち、
ついに大女帝と仰がれるまでに至っている。
とてもしおらしく可愛い娘と結婚して幸せだなあと思っていたところ、年を経ていつの間にか、女帝のようになっていたという経験を持つ男性は、世に多いのではないだろうか。
その大女帝ヨリコ姫の悪人ぶりである。
「鬼女となり悪魔となり、竜蛇となり国を傾け城を覆へし、あらゆる男子の心胆をとろかし、男子の稜々たる気骨も、肉離れのするところまで魔の手を伸ば」し、「外道の骨頂、鬼畜の親玉、悪魔の集合場、暗黒無明の張本となつて天下を混乱し、あらゆる害毒を流布するに至る」
「男子の気骨を肉離れ」させ、「鬼畜の親玉」たるヨリコ姫であるが、その悪人ぶりが改心の直前においても、なお描かれる念の入れようである。
心に豺狼の爪牙を蔵し、天下を掌握せむと、昼夜肝胆を砕いて、外面如菩薩内心如夜叉、羅刹悪鬼の権化ともたとふべき山賊の大頭目、ヨリコ姫女帝
〔第六十七巻第一章「梅の梅花」以下同じ〕
ところが梅公の神気に触れると、一転即座にヨリコ姫は改心する。一体、梅公のどの言霊に感応したのか、ページを見返すほどである。
梅公が口より迸る天性の神気に打たれて、忽ち心内に天変地妖を起し、胸には革新軍の喇叭の音響き、五臓六腑一度に更生的活動を起して、専制と強圧と尊貴を願ふ慾念と、自己愛の兇党連は俄かに影を潜め、惟神の本性、生れ赤児の真心に立ちかへり、一身の利慾を忘れ、神に従ひ神を愛し、人を愛し万有一切を愛するの宇宙的大恋愛心に往生した
そして、天地までが「宇宙的大恋愛心」たるヨリコ姫の改心に感応する。美しい文章が続く。
その真心は天地に感応し、天は高く清く澄みわたり、一点の雲もなく、七宝を鏤めたるがごとき星の大空をボカして、見渡す東の原野より千草を分けて昇り来たる上弦の月光、あたかも切れ味のよい庖丁をもつて、円満具足せる西瓜を真中より二つに手際よく切りわけしごとき、輪廓の判然とした白銀の半玉、たちまち天地を照り輝かし、地上に往来する蟻の姿さへも明瞭に見えてきた。
このように、「大なる悪事を為したる者は悔い改むる心もまた深い」〔第七十二巻第七章「鰹の網引」〕のである。
〔後記〕
霊界物語には親鸞聖人の和讃のほか、浄土真宗が経典とする無量寿経を基とした箇所がいくつかある【註3】。また、聖書に関するスエデンボルグの著書「天界と地獄」も霊界物語の基となっている箇所がある。これらは、神素盞嗚尊の四魂が、それぞれ釈迦やキリストなどと示されている【註4】ように、霊界物語が万教同根の教典であることの一つの証しともなるのではないだろうか。
ところで、我が家は昭和二十三年の大本入信以前は、近所の多くと同様、山口市にある浄土真宗の徳證寺の門徒であった。実は、この寺の住職平田徳雨さんは、喜界島出身の東郷晶子さんと歌の友だちである。東郷さんはかつて霊界物語フェスティバーロで、ピアノを弾きながら歌われた方である。
住職の徳雨さんとは、地元の観音様の祭礼や葬儀などでよくお会いしており、「藤井盛」の私のユーチューブのチャンネル登録もしていただいている。
また、住職の父親の前住職平田厚志さんは、龍谷大学の教授をされていた方である。宗教史が専門で大本のこともよくご存じであった。
私は妻が他界して、妻を詠んだ歌集を作ったが、前住職の厚志さんから「こうした信仰的なものを、信仰を持たない一般の人々が目にすることには大きな意義がある」と言っていただいた。私はこの言葉に励まされ、積極的に歌集を配ろうと思った。
そして現在、配布が千五十部を越えた。
【註3】※それぞれ一部分を記載。
①神仏無量寿経〔第六十七巻第五章「浪の鼓」〕
それ蒼生にしてこの神光に遭ふものは、三垢消滅し身意柔軟に歓喜踊躍して、愛善の至心を生ず。三途勤苦の処にありて、この神の大光明を拝し奉らば、いづれも安息を得て、また一つの苦悩無く、生前死後を超越し、坐しながら安楽境に身を置き、天国の生涯を送ることを得べし。
仏説無量寿経巻上〔岩波文庫 浄土三部経(上)〕
それ衆生ありて、この光に遭ふ者、三垢、消滅し、身意、柔軟にして、歓喜踊躍し、善心生ず。もし三途の勤苦の処に在りて、この光明を見たてまつれば、みな、休息をえて、また苦悩なく、寿終りて後、みな、解脱を蒙る。
②〔第五十五巻 序文〕
行して神使となること能はずとも当に無上の神心を発し一向に天地の大祖神を祈願し真心より可成的善行を修して斎戒を奉持し神の聖社を建立するの一端に仕え神使に飲食を心より供養し神号輻を祀り灯火を献じ祝詞を奏上し神の御前に拝跪せば天界に生れしめ玉はむ
仏説無量寿経巻上〔岩波文庫 浄土三部経(上)〕
行じて沙門となり、大いに功徳を修するあたわずといえども、まさに無上菩提の心を発して、一向に専ら無量寿仏を念ずべし。多少、善を修し、斎戒を奉持し、塔像を起立し、沙門に飲食せしめ、繒を懸け、燈を然し、華を散じ、香を焼き、これをもって廻向して、かの国に生まれんと願う。
③〔第四十一巻 総説〕
今私は仏典に依つて浄土即ち高天原の真相を示す…
「その国土には七宝の諸樹世界に周満せり。金樹、銀樹、瑠璃樹、玻璃樹、珊瑚樹、瑪瑙樹、硨磲樹あり。(以下何れもその荘厳優美の比喩辞也)或は二宝乃至三宝乃至七宝うたた共に合成せるあり。
仏説無量寿経巻上〔岩波文庫 浄土三部経(上)〕
その国土、七宝もろもろの樹ありて、あまねく(安楽)世界に満つ。金樹、銀樹、瑠璃樹、玻璃樹、珊瑚樹、瑪瑙樹、硨磲樹なり。あるいは二宝・三宝ないし七宝、うたたともに合成せり。
④〔第六十四巻(下)第一章「復活祭」〕
某聖者が地獄一定と日われたのは此処にある。
親鸞著 歎異抄(第二条)
いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。
【註4】第三巻第四三章「配所の月」、第六巻第二三章「諸教同根」、第十巻二六章「貴の御児」
(令2・10・20記)
〔『愛善世界』令和3年4月号掲載〕
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