㉘真に依信すべきは主神一柱のみ

「愛善世界」誌掲載文等

~スエデンボルグ著「天界と地獄」と霊界物語~

 霊界物語の入蒙記には、出口聖師の教えが、既存の宗教にはない霊界の真相を説いた「火の洗礼」であることが示してある。

 我々は、霊界を知ることにより人生が現幽を通じたものであり、また、現界での生活や信仰のあり方が、霊界での行く先を左右することを悟ることができる。第十九巻に「神幽現三界を通じて善悪正邪勤怠の応報が儼然としてある」と示されているとおりである。

 霊界物語に示された霊界のあり(さま)から、現界での信仰のあるべき姿を考えてみたい。

 水洗礼たる今迄の予言者や救世主の教理…安心立命を心から得ることが出来なくなつた…現幽相応の理に()つて、火の洗礼たる霊界の消息を…言霊別の精霊を…降された
〔入蒙記第1章「水火訓」〕

 人間は未来の世界のある事が判らねば真の道義を行ふことが出来ぬものである。神幽現三界を通じて善悪正邪勤怠の応報が儼然としてあるものと云ふことを覚らねば人生の本分は何うしても尽されないものである。
〔第19巻「霊の礎五」〕

〇天人の住居

 天国での天人の住居の様子が、第四十七巻に示してある。

 東と西に住む天人を比べて、東の天人の方が愛と信に秀で、また、南と北の天人では、南の天人が智慧と証覚に充ちている。

 あの東の方を御覧なさい…沢山の家が建つてゐるでせう。あれが第三天国の或一部の団体で、愛と信とに秀でたる天人の住居する団体です…此真西に当る所にも…善と真との徳(やや)薄く、光も少しく朧げなる天人共の住居致して居る団体であります…南の方に…智慧と証覚とに充ちたる天人共の住居する団体です…此真北に当る所に又一つの丘陵があつて…南の団体よりは少しく劣つてゐる天人が群居して居ります。
 〔第47巻第12章「天界行」〕

 こうした天人の住居の違いは、愛善と信真の徳や智慧証覚の厚薄によるとあり、また併せて、同じ意思想念の者が集まるほど愉快なことはないと示してある。

 ・天人等の愛善と信真の徳の厚薄に依つて、(かく)の如く差等が惟神的についてゐるのです。

 ・同じ智慧や意思の人間ばかりが、一所に集まつて居る程、愉快な事はありますまい。
 〔第47巻第12章「天界行」〕

 同様な表現として、「愛善の徳と智慧証覚の度合」〔第47巻第20章「間接内流」〕ともあるが、厚薄とか度合いとか、個々の天人の御霊の違いによって天国が形作られている。

〇天国の太陽・霊国の月

 さて、天国では大神様が太陽と現われられ、また、霊国にては月と現われられる。

 「先生、大変な立派な日輪様がお上りになりましたな」 
 「天国に於ては大神様が日輪様となつて現はれ給ひます…自然界の太陽より来るものは凡て自愛と世間愛に充ち、天国の太陽より来る光は愛善の光ですから…霊国に於ては大神様は月様とお現はれになります」   
 〔第47巻第20章「間接内流」〕

 天国の太陽とは厳の御霊の御神格が顕現して、(ここ)に太陽と現はれ給ふのです。…霊国にては瑞の御霊の大神月と現はれ給ひ、天国にては又太陽と現はれ給ふのであります。
 〔第47巻第13章「下層天国」〕

 この大神様の現われられ方もまた、個々の天人の御霊の違い、つまり愛と信と証覚の厚薄によって大神様は太陽となられ、あるいは月となられる。

 大神様に変りはなけれども、天人共の愛と信と証覚の如何によつて、或は太陽と現はれ給ひ或は月と現はれ給ふのです。
 〔第47巻第20章「間接内流」〕

〇人と主神一柱との一対一の信仰

 このように、天人は自らの御霊の愛や信、智慧証覚に応じて、自分の住みやすい天国や霊国【註1】の住居へと進んで行く。また、そこで見る太陽や月も、個々の御霊に応じたものとなっている。

 つまり、我々が帰幽後に進んで行く天界は、それぞれの御霊にとって最適なものとなっている。言い換えれば、もとより一つである天界とか日月が、個々の御霊にとって最適となるよう変化をしているということである。大神様が各天人に対して、極めて丁寧な対応を取っておられるということである。

 しかも、天界で太陽や月と現われられる大神様と人とは、一対一の密接な関係であることも示されている。

 ところで、現界では太陽が上りきった所を南と定めるが、天国では、大神様が太陽と現われられた所が東と定められている。

〔①方位の定め方〕
 地上の世界に於ては日輪様が上りきられた最も高い処を南と云ひ…地下にある所を北となし、日輪様が昼夜の平分線に上る所を東となし、其没する所を西となす…現界に於ては一切の方位を南から定め…
 高天原に於ては大神様が日輪様と現はれ給ふ処を東となし、之に対するを西となし、それから高天原の右の方を南となし、左の方を北とす

 〔第47巻第20章「間接内流」〕

 しかも、天人がどこを向いても、常に日月に向かっており、よって、そこが常に東だというのである。なぜなら、大神様が生命の源泉だからというのである。ただ、現界にいる我々にはイメージし難いところであるが。

〔②常に日月に向かう〕
 さうして天界の天人は何れの処に其顔と体躯とを転向するとも、皆日月に向つて居るのです。其日月に向うた処を東と云ふのです。
 故に高天原の方位は皆東より定まります。何故なれば、一切のものの生命の源泉は、日輪様たる大神様より来る故である。故に天界にては、厳の御魂、瑞の御魂をお東様と呼んでゐます。

 〔第47巻第20章「間接内流」〕

 つまり、天界の天人は、命の源たる大神様と常に一対一の関係にあるということである。先に述べたとおり、神幽現の三界に「善悪正邪勤怠」の応報が儼然とあるなか、この天界での天人と大神との一対一の関係は、いずれは天界に行く我々にとって、現界でのあるべき信仰姿勢を示すものである。

 実際、このあるべき主神一柱との一対一の信仰姿勢が、第六十三巻「山上訓」に示してある。
「山上訓」では、神々と人に関する十項目の説明があるなかで、「依信すべき真の神は主神ただ一柱のみ」ということが四度も出てくる。

 なぜ、これほどまでに、同じことを繰り返されるのだろうかというほど「人と主神一柱との一対一の信仰」が徹底【注2】されている。

神素盞嗚の大神が山上の神訓(主神部分のみ)

 無限絶対無始無終に坐しまして霊力体の大元霊と現はれたまふ(まこと)の神は、只一柱(おは)()()之を真の神または宇宙の主神といふ。汝等、この大神を真の父となし母と為して敬愛し奉るべし。天之御中主大神と奉称し、また大国常立大神と奉称す。

 真の神は大国常立大神、又の名は(あま)(てらす)(すめ)大神(おほかみ)ただ一柱坐しますのみぞ。

 真の神は、天之御中主大神ただ一柱のみ。故に幽の幽と称え奉る。

 (しか) して(しん)敬愛し尊敬し依信すべき根本の大神は、幽の幽に坐します一柱の大神而已

  〔第63巻第4章「山上訓」〕

【註1】「愛善世界」二〇二〇年二月号 伊藤善久氏
「自分にとって一番住み心地の良い霊界」(68頁)
【註2】同「一番大事なのはこの宇宙をお造りになった主神を信仰し」(70~71頁)

〇スエデンボルグ著「天界と地獄」

 さて、この「人と主神一柱との一対一の信仰」の重要性をさらに説明する本がある。スエデンボルグ著「天界と地獄」である。

 先に説明した「天界では大神様が太陽と現われられる所を東とする」とある霊界物語と同じ内容が「天界と地獄」にある。左の霊界物語と「天界と地獄」の対比表1のとおりである。

 ところで、「天界と地獄」の著者スエデンボルグは、約二百三十年前の一七八八年生まれのスウェーデン人である。また、訳したのは禅宗の仏教学者鈴木大拙で、出版は明治四十三年である。

対比表1

〔霊界物語〕第47巻第20章「間接内流」〔天界と地獄〕天界における方位のこと(一四一)
〔①方位の定め方〕
 地上の世界に於ては日輪様が上りきられた最も高い処を南と云ひ、…地下にある所を北となし、日輪様が昼夜の平分線に上る所を東となし、其没する所を西となす…現界に於ては一切の方位を南から定め…
 高天原に於ては大神様が日輪様と現はれ給ふ処を東となし、之に対するを西となし、それから高天原の右の方を南となし、左の方を北とする
〔①方位の定め方〕
 世間にては太陽が地上を去る最高の処を南と云い…地下にある処を北となし、太陽が昼夜平分線に上る処を東となし、その没する処を西となす…世間に在りては一切の方位を南より定むれ…
  天界にては主が太陽として現われ給う処を東とし、之に対するを西とし、天界の右方を南とし、左方を北とす

 霊界物語の口述が大正十年からであるから、「天界と地獄」があたかも霊界物語の底本であるかのようである。事実、「天界と地獄」の多くの箇所に霊界物語と同じ記述がある。「ああ、ここもか、ここもか」というほどである。

 私は、四十年前にこの本に出会った。霊界物語と関係があると聞き、県立図書館で和綴じ本を借りた。現在、講談社文芸文庫版を職場の昼休みに読むことを楽しみにしているが、二十年前に岩波書店の鈴木大拙全集に収められていたのを見つけ、少しずつ読んできた。

「天界と地獄」の内容は、スエデンボルグが霊界に入り天人から聞き取ったというものであるが、霊界物語にある主神の御神格や霊界に関する論文的な箇所は、すべてこの本によっているのではないかと思われるほどである。

「天界と地獄」
講談社文芸文庫

 また、第四十七巻(第十二章「天界行」)に想念の延長に関する七五調の長歌があるが、それに該当する散文形式の文章が「天界と地獄」(八五)にあったり、第五十六巻(第八章「愛米」)に、中有界で高姫と求道居士が自愛について論争する場面があるが、それがそのまま、「天界と地獄」の地獄界(五五五)に出ていたのには驚いた。

 しかも、鈴木大拙の訳の用語の多くが霊界物語に用いられている。

 なお、スエデンボルグは一六八八年生まれで一七七二年に没している。一方、出口聖師は一八七一年のお生まれで一九四八年ご昇天である。スエデンボルグ没年の一七七二年のほぼ一〇〇年後の一八七一年に聖師がお生まれになり、また、スエデンボルグが生まれた一六八八年のちょうど二六〇年後の一九四八年に、出口聖師がご昇天になっておられる。

 これは単なる偶然ではなかろう。「それはわしじゃ」という出口聖師の声が聞こえて来そうである。また、鈴木大拙が訳した明治四十三年が、ユダヤ歴で五六七〇年【註3】というみろく様にちなむ年であるのも興味深いところである。 

 【註3】「神の國」二〇二〇年二月号31頁 村山浩樹氏
     「明治四十二年九月十六日からユダヤ歴五六七〇年」

〇霊界物語を説明する「天界と地獄」

 さて、単に霊界物語と同じ文章が「天界と地獄」にあることよりも、もっと重要なことがある。「天界と地獄」が霊界物語を説明していることである。

 先に述べた霊界物語の長歌と「天界と地獄」の散文の例もそうである。

 下の対比表2での霊界物語と「天界と地獄」の内容はどちらも「天人がいずれを向いても、常に日月が面前にある。それは大神様が生命の源泉だから」とのことで同じである。しかし、霊界物語にはない、その理由を示した詳しい内容が「天界と地獄」には次のようにある。

対比表2

〔霊界物語〕第47巻第20章「間接内流」〔天界と地獄〕天界における方位のこと(一四一)
〔②常に日月に向かう〕
 さうして天界の天人は何れの処に其顔と体躯とを転向するとも、皆日月に向つて居るのです。其日月に向うた処を東と云ふのです。
故に高天原の方位は皆東より定まります。何故なれば、一切のものの生命の源泉は、日輪様たる大神様より来る故である。故に天界にては、厳の御魂、
瑞の御魂をお東様と呼んでゐます。


〔②常に日月に向かう〕
 こは天人何れの処にその面と体躯とを転向するも然らずと云うことなし。
 
 かくて天界の方位はみな東より定まる。何が故に主が太陽として現わるる処を東となすかと尋ぬるに、そは一切の生命(いのち)の本は太陽たる主より来ればなり、又天人がより、熱と光、即ち愛と智とを摂取する度に比例して、主は彼等の上に現わるると云えばなり。是の故に聖言中に主を呼びて東となす。

 〔天界と地獄〕天界における方位のこと(一四三)

 天人は、人間の如く、何れの方位にも其面を向け、その身体を転じ得れども、天人の眼前に見ゆるは常に東なりと云うわけは、天人における相貌の変化は人間と同じからずして、他の根源に由ればなり。

‥かの根源と云うは能主の愛のことなり、この愛によりて方位の定まること、天人も精霊も相異ならず、そは今述べたる如く、彼等の内分は、実際その共通中心点、即ち天界に在りては太陽たる主の方向に対して立てばなり。

 是の如き彼等の内分の前面に在るものは常に愛ならずと云うことなし、而して彼等の外的形態なる面貌は、その内分によりて存在するものなるが故に、その面貌の前面に絶えず現わるるものは、彼等の中に能主たる愛なるや明なり。

 かくして太陽たる主は、天界にては常に天人の面前に在りと謂うべし。天人がその愛を有するは主よりするものなるが故に。又主は天人に対して、自己本来の愛におり給うを以て天人が如何なる方向に転回するに拘わらず、常に主をその前に見るを得るは、主の所為なるを知るべし。

 是等の事は今精しく説くを得ず後来特に天界における表象と相貌、及び時間と空間とを説く処に至りて、此事益々智性の上に明かなるべし。

 霊界物語の論文箇所が難解であるのと同様、このように「天界と地獄」も決して読みやすくはない。霊界物語を説明しているというものの、理解するのはなかなか容易ではない。

「天人の生命の源泉は主神の愛。天人の内分は主神の愛に向かうので、内分の現われなる面貌も主神に向かう。面貌の向かうところに常に主がおられるのは主神の愛のゆえんで、主神の為せるところ。今は詳しく説けないが、今後さらに表象などを説いていけばわかる」などとまとめてみるのが、私の智慧証覚では精一杯である。

 ただ、主神は天人一人ひとりに対して、厚く愛を注いでおられることだけは十分伝わってくる。

 また加えて、「天界と地獄」の文章量は厖大である。講談社文芸文庫版で一頁六八〇字(40×17)あるものが五〇〇頁にも及んでいる。

 全体にほぼ目を通したが、霊界物語との対比表の作成が、霊界物語を理解する上で有意義であることをひしひしと感じている。ただ、なかなかの大仕事である。

 なお、「天界と地獄」が霊界物語を詳しく説明しているということは、逆に言えば、霊界物語の文章には、書かれたもの以上のことが込められているということである。「天界と地獄」の存在がその証拠になる。

 また実は、「人と主神一柱との一対一の信仰」をよく説明する箇所が他にもある。霊界物語第四十七巻「総説」・第九章「愛と信」を、「天界と地獄」の「主は天界の神なること(二)」がよく説明している。

 両者は「神を三分できない」とか「言葉は心から出て、言うところは思うところ、思うところは言うところ」、「心に三を念じて口に一を言うを得ず」などを共通の語句としている。この箇所も対比表を作成することで「人と主神一柱との一対一の信仰」をよく理解することができると考えている。文章をまたまとめてみたい。

〔余録〕出口聖師を意識した鈴木大拙
 鈴木大拙が戦後、昭和天皇に講義した内容が「仏教の大意」(角川ソフィア文庫)として出版されている。このなかで仏教を「大悲(大慈)」と「大智」に分けて説いているのは、「天界と地獄」で説いている主神の御神格である「愛」と「信」に沿ったかの構成である。また、仏教を説いているにもかかわらず「神慮」という言葉を使うのも、「天界と地獄」の訳者ならではのことである。

 また、鈴木大拙と折口信夫との対話が「折口信夫対話集」(講談社文芸文庫)に収められている。対話がなされたのは昭和二十二年十二月である。

 このなかで、鈴木大拙は「神社神道の教義を担うのは宗派神道」だとして、天理教や金光教と並べて大本教を挙げている。しかも、ユダヤ教からキリストが出てきたように、神道からもそうした者が出て来るという、暗に出口聖師を指しているのではないかと思わせる言葉がある。

 神社神道というか…教義の系統が全くない…教義を立てるとすると黒住教、金光教、大本教という宗派神道でなければならない…

 ユダヤの中にキリストが出てキリスト教を(こしら)えて…

 神々をして各々その処を得せしめるような組織は、八幡様の宮司たちがお寄りになって評議しても出来ない…これはやはり人格から出なければならない…誰か偉大な宗教家が立ってその宗教を中心にして出来る

 〔講談社文芸文庫「折口信夫対話集」三三八~三四一頁〕

「折口信夫対話集」
講談社文芸文庫 

         (令2・2・11記)
〔『愛善世界』令和2年11月号掲載〕

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