(56)入蒙を考える(その三)―白音太来 (パインタラ) での辞世―

「愛善世界」誌掲載文等

○松陰密航企てから七十年目の入蒙

吉田松陰に関係する私の短歌が、朝日新聞山口版の短歌欄(平成三十年九月五日)に載った。

「池田屋に(たお)れたる志士松陰の養母の実家も道の辺山口」

 勤王の志士の実家も吉田松陰の養母の実家も、いずれも道沿いにある、山口県はそういう所だというもの。

 出口聖師も静岡県下田の柿崎に行かれた時、吉田松陰について四首詠んでおられる。昭和八年(一九三三)二月二十二日付けで、第十一歌集「山と海」(昭和八年六月発行)の中にある。

「松陰が渡米せんとてとらへられし柿崎に来つ涙ぐましも」(「昭和八年四月」二月廿日 以下も同)

「松陰が英魂永久に残れるかこの柿崎の浪に聲あり」 

「松陰の名をとどめたる柿崎の浪とこしへにみ代を洗へり」

「松陰が名をとどめたる柿崎の弁天島はあな清しけれ」

 嘉永七年(一八五四)三月二十七日、吉田松陰は下田の柿崎で、国禁を犯し密航せんとペリー艦隊旗艦ポーハタンへ乗り込んだが、追い返された。

吉田松陰
下田港

 その柿崎で出口聖師は、「涙ぐまし」と松陰に同情し、「英魂永久に残れる」、「み代を洗う」と称えている。しかも、乗り込む前に、松陰が一時身を置いた弁天島にまで歌が及ぶ丁寧さである。

 嘉永七年(一八五四)の松陰の密航企てからちょうど七十年目の大正十三年(一九二四)、出口聖師も第一次大本事件で責付出獄【註1】の身でありながら、極秘裏に日本を脱出し入蒙された。

 出口聖師は、松陰が発揮した活動力を信徒に求めたのか、入蒙についてこう示されている。

「卑劣で柔弱で…真の勇気が」ない信徒を、「神の聖霊の宿つた活きた機関として…活動せしめむと…模範を示す為に…蒙古の大原野を…開拓すべく」(「入蒙記」二章「神示の経綸」)

 また、次のお歌はわかりやすい。

「心のみ誠の道にかなふとも行ひせずば神は守らじ」 (同五章「心の奥」)

【註1】身柄を親族などに預けて拘留を停止する制度。

○入蒙と軍事行動

 入蒙で、出口聖師は自分を救世主と信じる()(せん)(かい)と行動を共にされた。一方、東三省保安総司令(ちょう)(さく)(りん)は盧占魁を利用し、内外蒙古を手中に収めんとの野心を持ち、盧占魁に内外蒙古出征の命を下した。

 入蒙はこうした軍事行動の一環の中にあった。盧占魁も、当初の「西北自治軍」を索倫(ソーロン)で「内外蒙古救援軍」と改称し、出口聖師を総大将とすることを企てていた。

「張作霖は…盧占魁を利用して…内外蒙古を完全に吾手に入れて見たいと思ふ野心」(同九章「司令公館」次も同)

「盧は…索倫山に行つて…内外蒙古救援軍と改称し、日出雄を総大将として大経綸を行ふ計画を…企てた」

 入蒙の進路図が入蒙記の冒頭にある。これに地名と日付を当ててみた。

入蒙進路図

 ⑤公爺府(コンエフ)で、出口聖師が救世主ということで人が集まりだし、⑥(しも)(もく)(きょく)()索倫(ソーロン))で、計画どおり「内外蒙古独立救援軍」が編成された。

 しかし、⑦(かみ)(もく)(きょく)()に着くと攻撃を受け始め、離脱兵も出始めた。そして、なぜか⑧で南転し、⑨で東南へ向かい、⑩でも銃撃を受け、六月二十一日、⑩()(イン)()()で武装解除の上、盧の兵は全員射殺され、翌二十二日出口聖師一行も射殺されんとされている。

()(イン)()()・出口聖師は左から二人目

 なお、()(イン)()()で捕らえられた事情が「入蒙余録」に示してある。張作霖の裏切り及び赤軍、()(はい)()との戦いの結果とある。

 また、入蒙時の大陸の複雑な政治・軍事情勢が上野公園著「王仁蒙古入記」(挙兵事情)で詳しく説明されている。張作霖が盧占魁の扱いに苦労し、孫文にも配慮している。これらのことを承知した上での出口聖師の入蒙であったということである。

「張作霖の裏切り及び赤軍との戦ひの疲れ、呉佩孚軍との戦ひによつて携帯した所の食料も弾丸もなくなつて了ひ、已むを得ず白音太拉で吾々は捕へられ」(入蒙余録「大本の経綸と満蒙」)

「数千騎の呉佩孚軍は一斉に(くつわ)並べて吾に迫り来」 (第十一歌集「山と海」蒙古の月)

「張作霖…盧の起用を…河豚(ふぐ)()ひたし生命(いのち)()し」(王仁蒙古入記「挙兵事情(一)」)

「張作霖より…西北自治軍は東三省とは表面何等の関係なき…(かん)(とん)の孫文に依頼し」(王仁蒙古入記「挙兵事情(二)」)

○松陰の辞世が本歌

 六月二十二日、出口聖師が銃殺されんとされた時の辞世である。

「よしや身は蒙古のあら野に()つるとも日本(やまと)(おの)()(しな)は落さじ」

 結局、出口聖師らは、捕縛された折、遺棄された御手代が日本領事館に届けられて、銃殺には至らなかった。

 一方、吉田松陰は安政六年(一八五九)十月二十七日、処刑された。聖師らが銃殺されんとした大正十三年(一九二四)六月二十二日から六十五年前である。

 松陰は処刑に当たり留魂録という遺書を残している。その冒頭に辞世がある。

「身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置かまし大和魂」

留魂録

 出口聖師の「よしや身は蒙古のあら野に()つるとも」と松陰の「身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも」。いずれも「わが身が野に朽ちても」ということ。さらに出口聖師の「日本(やまと)(おの)()(しな)は落さじ」と松陰の「留置かまし大和魂」。いずれも、たとえ身は滅びても魂の気高さは失わないということである。

 このように、出口聖師の辞世が松陰の辞世を本歌とすることは疑いようがない。また、先に紹介したとおり、昭和八年(一九三三)二月二十二日、出口聖師が下田で、「涙ぐまし」とか「英魂永久に残れる」、「み代を洗う」とまで松陰を称えていることがその証となる。

○白音太来(パインタラ)事件後八十年目の台風

 出口聖師が、()(イン)()()に入られた大正十三年(一九二四)六月二十一日からちょうど八十年目の平成十六年(二○○四)六月二十一日、台風六号が、神島及び亀岡、綾部、冠島・沓島の上空を通り抜けた。(こん)(ごん)二神の隠退された島や聖地の上をである。

 なお、この台風は異例であった。六月に兵庫県に台風が上陸したのは戦後初めてであり、しかも、六月では、統計を取り始めた昭和二十六年以来最強であった。

 あたかも八十年前の六月二十一日を狙ったかのような台風である。出口聖師御昇天の昭和二十三年(一九四八)一月十九日から五十六年目であったが、みろく下生たる出口聖師の御意思は、今なお時空に活動力を起こしている【註2】。

《平成16年台風6号経路図》
平成16年(2004)6月21日

【註2】此神(天之御中主神)の活動を縦に考察する時に、時間という観念が起り、又之を横に考察する時に、空間という観念が起る。活動がなければ、時間もなく、空間もない。(「大本略義」時間と空間)

○本宮山教碑及び歌碑の建立

 入蒙の大正十三年(一九二四)二月十三日から七年後の昭和六年(一九三一)九月八日、本宮山に教碑が建立された。

「神は万物普遍の霊にして 人は天地経綸の大司宰也 神人合一して茲に無限の権力を発揮⦿()」 

 ⦿()は主神のス。出口聖師は主神の御霊(おみたま)で、みろく様の下生であることを明確に刻んだものである。

 ところで、教碑は、建立の昭和六年以前の大正十二年十二月には、すでに本宮山に伏せて置かれている。翌十三年二月の入蒙以前である。

 出口聖師五十六歳七ヶ月に当たる昭和三年三月三日を過ぎても、教碑は建立されず、建立されたのは昭和六年(一九三一)九月八日である。その十日後の九月十八日に満州事変が起きて、出口聖師は神界の経綸という言葉を使われている。

「今度の満州事変といひ…神界の経綸が実現の緒についた」(昭和七年二月 大本瑞祥会第五回総会)

 この時、並んで建立されたのが大正十三年六月二十二日、()(イン)()()で詠まれた出口聖師辞世の歌碑である。出口聖師のみろく下生たるの御神格を示す教碑に並ぶほど、()(イン)()()での辞世の歌碑も重要とのことである。

本宮山に建てられた歌碑(左)神聲碑(中央)教碑(右)

 なお、教碑及び歌碑の建立が九月八日であるが、満州事変が起きた九月十八日は旧九月八日であった。つまり、いずれも大本で大事なお仕組みがある「九月八日」ということである。

「大本教旨を…新の九月八日に建て…九月十八日には満洲問題…本日が旧の九月八日であって新の十八日…不思議であります」 (出口聖師の講演)

 つまり、同じく九月八日に建立された歌碑の辞世が詠まれた入蒙も、また、旧九月八日の満州事変も大事なお仕組みだということでもある。

「いち早く満蒙の地を整理せよロシアの(まが)(すき)をねらへば」(言華『神の国』昭和六年十一月)

「一日も早く満州に主権者をたてて日本の悩みをのぞけ」 (同上)

○本宮山教碑等建立九十年目の台風

 令和三年(二○二一)九月八日、非常に強くなった台風十四号が異例の東進ルートをとった。そして九月十八日、台風は出口聖師が最後に御巡教された和歌山県に上陸した。

朝日新聞・令和3年9月19日

 この九月八日から十八日までの期間は、九十年前の昭和六年(一九三一)九月八日に、本宮山に教碑と入蒙時の辞世の歌碑が建立されてから、満州事変勃発の九月十八日までと重なる。

 なお、福岡県に台風が上陸したのは、台風統計開始以来初めてであった。また、上陸前、日本の西の東シナ海で四日間停滞した後、真東に進むなど異例であった。

○神武東征と重なるルート

 またそのルートが不思議である。神武天皇が日向から畿内を目指した「神武東征」のルートを、辿っているかのようである。

 台風と神武東征のルートの共通点を、地図の①~③で示した。

①初めて台風が上陸した九州北部に、神武天皇が一年滞在した「筑紫の(をか)田宮(だのみや)岡水門(おかのみなと))」があること。

②台風の和歌山県上陸付近には、神武天皇の長兄五瀬命(いつせのみこと)が亡くなった「(きの)(くに)男之(をの)水門(みなと)」があること。

 なお、出口聖師は、兄の命を奪った長髄彦(ながすねひこ)(かたき)をとりたいという神武天皇の歌を、神島開きを書かれた『敷島新報』(大正五年五月一日号)に載せられ、その無念さに同情されている。

③紀州半島を進む台風が、神武天皇が王朝成立に向けて戦った吉野を通過していること。

 この戦いの中で、出口聖師が「自分だ」と言われた饒速日(にぎはやひ)長髄彦(ながすねひこ)を滅ぼしている。また、出口聖師は「紀州に行かねばご用のすまぬことがある」と言われ、昭和二十一年七月十六日、高血圧をおして大阪から海路で和歌山県・熊野に行かれている。

 このように、台風十四号は神武東征のルートを、しかも出口聖師と関係がある所を辿っている。入蒙と満州事変、これに神武東征も重なる不思議を、我々はどう受け止めればいいのだろうか。

【追記】

 前回の「入蒙を考える(その二)ーキリストの聖痕―」で、「天眼通を有する人には、出口聖師の肌が紫磨黄金に見えたのではないだろうか」(4頁)と書いたが、入蒙記に、まさに出口聖師の身体(しんたい)から黄金色の光が出ているのを見た人がいたことが(しる)してあった。

「日蓮宗の…坂本は暗夜に日出雄の身体(しんたい)から黄金色の光が放射してゐたのを霊眼で認めて、日出雄の神格を知り、(にはか)に大本信者となつた」(一九章「仮司令部」)

【余録】

 平成三十年二月十九日、福岡市の愛善苑所属の石田敦子さんのお住まいで、霊界物語の勉強会があった。その石田さんの玄関に孫文の額があった。

 孫文は清朝政府に追われて、百三十年前の一八九五年頃日本に亡命している。その時、孫文を支えたのが革命家の宮崎滔天である。その滔天の子が龍介で柳原白蓮の駆け落ちの相手であった。

 出口聖師は大正十一年七月、白蓮を霊界物語が口述された松雲閣にかくまっておられる。六十一巻(「序文」)には白蓮の本名「燁子(あきこ)」も出ている。また、大正十一年七月口述の二十六巻には、龍介の「竜」、白蓮の「蓮」、子どもの香織(長男)の「香」が読み込まれている【註3】。

 なお、白蓮は昭和三十年頃まで大本東京本部に参拝していたということである。

「瑞月、隆光、明子を初め鶴殿親子、柳原燁子(あきこ)、小倉貞子の三女人相並びて」 (六十一巻「序文」)

神様の為す業か…四辺は忽ち芳に…(はちす)の花は何時しかに」(二十六巻一五章「諭詩の歌」)

    

 私の妻が亡くなった六年前の平成二十九年十月三十日の前の晩だったか、その前か、病院の談話室で白蓮の長女蕗苳(ふき)さんの手記を偶然見つけた。昭和三十一年(一九五六)、両親が中国を訪れ、毛沢東や周恩来と会ったと書いてあった【註4】。昭和三十七年に出口榮二先生が中国に行かれた六年前である。

 今回、入蒙の話で孫文が出て来たので、関連で柳原蕗苳さんの手記を紹介できた。手記を見つけた病院の夜の森閑とした様子が、今も脳裏に浮かぶ。

【註3】参考(ネット)不二草紙 本日のおススメ「柳原白蓮と出口王仁三郎」

【註4】『文藝春秋』平成二十九年四月号「宮崎龍介」

孫文の額
柳原白蓮

(令6・3・6記)

コメント

タイトルとURLをコピーしました