⑨宣伝使知団周造氏の宣教活動

「愛善世界」誌掲載文等

                       藤井 盛

 知団(ちだん)周造氏は、戦前の大本激動の時代に山口県の東部、周防(すおう)地域に信者を拓いた功労者である。昭和三十六年一月に、氏の二十五年周年慰霊祭が行われ、記念誌「周東の光」が発行されている。

 この中には氏の手紙や日記があるが、夫人の松村鏡さんや氏の導きで入信された方々が手記を寄せて、氏の功績を讃えている。これらから氏の信仰を追ってみた。

知団周造氏

〇亀岡へ

 知団氏は明治四十二年一月、広島県神石郡高光村に生まれ、大正十四年四月、福岡県能方駅で連結手として勤務中、右足切断の災禍に遭った。昭和元年、国鉄を退職した後、山口県の大畠駅で売店経営を始めたことが、周防地域との関わりである。この時知団氏は二十一歳である。

 みろく下生の昭和三年三月三日、知団氏は、
 「松山姉からすすめられ、心中の悩みからヒョット或る好奇心に()られて、丹波綾部の大本へ行く決心をした。…ともかくいっぺん見てやろう」
との好奇心から亀岡へと向かっている。

〇安らかな帰幽

 この初修業から、七年八ヶ月後の昭和十年十一月四日、知団氏は帰幽する。帰幽間際の様子を、鏡夫人が詳しくに記念誌に記している。

 十月二十八日風邪で知団氏は寝込み、翌二十九日脳症を発病する。十一月三日午後八時、「自分は、四日午前十一時四十分に一人で行かねばならぬ」と言い出し、上等の服装などを夫人に用意させた。それらが揃うと眠ってしまったが、突然目を開き、

 「皆さん、あれを見なさい。金と銀の美しい(すだれ)が下っていて、その向こうで、美しい天人たちが舞を舞っていて、実に(たと)えようもない。あの美しい音色も聞こえるでしょう」
と言いながら、満ち足りたような微笑みを浮かべて楽しそうにしていた。

 翌四日、明け方に友人を呼ぶが、しかし「十一時四十分までしか待てないから」と、息を引き取る十分前に、今度開催する大本講演会の講師のことや会場、時刻、主催者名などを、乱れることなくノートに書いた。

 「友人にこれを渡してくれ」と頼むと、安らかな笑みを湛えて一同を眺め、皆の神言奏上に手を合わせながら、最後に大きく一呼吸しての帰幽であった。

  享年二十九歳とあまりに若いが、どういう信仰をすれば、こういう安らかな帰幽となるのだろうか。

〇感激の本部修行

 知団氏は三月三日山口を出発し、翌四日朝、亀岡の安生館に到着した。知団氏は初修行について父親あての手紙で伝えている。

 「今日は高熊山とかいうところへ皆お参りしておられるので、この宿舎はガラ空きです。‥‥外にたくさん建物があります」

 三月三日みろく下生の翌日は、高熊山参拝が行われていた。手紙は続く。 

 「大本教とはーそれは私が今まで思っていたような薄っぺらな宗教ではありませんでした」

 「あれほど官憲から一時圧迫され、妨害された大本教が今では官憲も何の手出しもし得ざること、益々大本教が広まりていること、遠方からでも知識階級の人々がドシドシと入信しているのを見ても、この偉大なることがうなずけるのであります」

 「毎日種々な教えを聞かせていただくと全く有り難くて有り難くて涙が出るようであります」

 「とにかく、一日でも早く人間が目覚めるほど、天国が近づくことになるのです」

 「人間のなすことは即ち神様が(つかさど)っておられるので、けっして人間一個人でするのではないのです」

 「第一、人生の目的、宇宙のこと等、種々の教え、普通の宗教とは全然違うのであります」

と感激した心境を綴り、さらに、聖地の奉仕者についても伝えている。

 「ことに人々が捨身で奉仕されているのにビックリした。善言美詞も俗世間では聞かれない。ことごとすべてが余りに純で清く気持ちよい。そしてすべてに感謝そのものに満ち溢れていることが目立つ」

 氏は、三月十日に聖師、十一日宇知麿先生、そして十二日綾部で三代様、日出麿先生にも会っている。また、本宮山では、大本教旨が刻まれた一枚岩が伏せられてあるのを見ている。

 「これは今横になりておるのも大いなる神示のあることらしい。この岩の建ったとき、世はミロクの世となると、高木氏より承る」

 やがてこの教学碑は三年後の昭和六年九月八日に建ち上がり、十日後に満州事変が勃発することとなる。

〇出歩くのが宣伝使

 知団氏の宣伝ぶりを鏡夫人が「おほもと」誌の昭和三十四年二月号(※1)で語っている。

 「家に帰っても、大反対の老夫婦と同居してたいへんつらい生活が始まったのです。とにかく、その頃の御神業というものは、たいへん厳しかったですよ」

 「主人はくる日もくる日も、世を救う、人を救うと口ぐせのように言いながら、宣伝に出歩かない日はなかったのです」

 しかし、疲れた様子は見せてはいない。

 「疲れて夜の九時十時頃帰宅することもしばしばでした。帰っても『ただ今帰りました』とニコニコしながら『皆さん、さぞ忙しかったでしょう。今日も相すみませんでした』と必ず申しておりました」

 後に大本山口本苑長となられる河本英二氏も知団氏に導かれた一人である。慰霊祭発起人代表を務めておられ、こう記されている。

 「『信仰気ちがい』『大本気ちがい』と陰口を言う者がおったほど、それぐらいに大本宣教に熱心でありました」

 「大本といえば、邪教という言葉が合い言葉のように通っていた時代でありますから、当時の宣教は相当の忍耐力と勇猛心がなくてはできないことでありました」

 「杖を頼りに義足を鳴らしながら文字どおりの東奔西走で、全く涙ぐましい活動を続けられました」

 「その宣教ぶりは熱心というより、熱心さを通り越して神懸かり状態といった方が早わかりしましょう。とにかく熱を帯びてくると全く時間空間を超越しての説法で、その真剣さにたいていの者なら兜を脱ぎます」

 当時山口主会次長であった浜田まつえ女史へは「一年も人類愛善新聞を購読している(あなたは)因縁の人だ」と語りかけ、「神の国」や「昭和」、「真如の光」を使って信仰に導いている。

 また、知団氏は筆まめで、日記に宣教の様子が詳しく記されている。

 「無愛想な理髪店の主人へ神様の話をしたこと。病気直しが信仰の目的ではないと駅長へ話したこと。亀岡に行かせるためお金を融通したことを両親になじられたこと。重態と聞き、一面識もない人へ神様の話をしたこと」等々。また、広島分所からの帰宅の様子もある。

 「おお、誠に『誠』ほどおそろしく力のあるものはない。誠、誠、誠。こうした感じに浸りつつ車上の人となる。車中、いただいた『真道の光』(大本の本)を読んでいるうちにいつの間にか天国の(さま)、ハット気づいた時は(午後)十時四十分。大畠駅を発して既に二、三分、アッ!と驚いてももう遅い。‥‥ああこれも、惟神、何かの警告をくださったのだと。その晩柳井津駅待合所で一晩中蚊軍と戦った」

 大本の本に夢中となり汽車を乗り過ごし、駅で一夜を明かしたという自分を、余裕をもって描いている。日記には、霊界物語拝読や切紙神示、エスペラントなどのことも記されてある。

 ※1 てい談 おかげにみちた「山口主会のあゆみ」語る人 植田英世・掛豊彦・松村鏡

〇大本激動の時代 

 知団氏はこうして信者を拓き、昭和四年六月、大本神代(こうじろ)村支部を設置。また、昭和五年には人類愛善新聞特派記者を命じられ、世界紅卍字会神代支部を設置。そして亡くなる年の昭和十年の二月には昭和神聖会発会式に尽力している。

 知団氏入信の昭和三年三月から帰幽の昭和十年十一月までは、聖師の「みろく下生」から「第二次大本事件」に至るまでの、まさに大本激動のまっただ中である。

 その様子を伝える写真が記念誌にある。「於昭和九年五月十九日山口公会堂防空展覧会」とか昭和青年会の(のぼり)とか、また、支部に日出麿先生や加藤明子(はるこ)女史を迎えた四十名余りの写真に、宣伝使帽の知団氏が見える。

昭和9年5月19日山口公会堂防空展覧会

 また、昭和五年五月、聖師は九州から岡山の熊山に向かわれる途中、山口県西部の信者を拓いた豊田支部の藤井善太郎氏の自宅を慰霊に訪れられているが、知団氏はこの道中の一部に加わっている。(※2参考)

 ※2 「真如の光」昭和五年六月五日号 北村隆光 九州御旅行随行記

〇宣教活動の活発化を

 知団氏帰幽八十年の今年、記念誌「周東の光」を、柳井市大畠の河本義人さんが私に送ってこられた。その内容に感動し今回の文章となった。

 今年十一月三日、知団氏の慰霊祭が地元柳井市大畠で行われ、併せて「周東の光」を三百部増刷し、県内外に無償で配布されるとのことである。知団氏の信仰に、多くの方々が感動されることだろう。

 ところで、大本の今回の御神業は「常闇の世をして最初の黄金世界に復帰せしむる」(入蒙記第二章「神示の経綸」)ことである。つまり、現界においては天人と、また死後天人となってからは現界の人間と直接交わり、まさに現界と天界が合わせ鏡のように一体となって進めていくものである。

 今回私は、知団氏の信仰が積極的な宣教活動にあったことを知った。

 我々は、今天界で天人となっておられる知団氏と相通じ、宣教活動の活発化にまい進し、氏の功績にこたえてまいりたい。

          (27・10・8記)
〔『愛善世界』平成28年12月号掲載〕

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