「お父さんの嘘つき。もう少しじゃあなかった」と言われるだろうと思いながら、「もう少し、もう少し」と山道を登らせた。盆の暑い中をである。高熊山に一度お参りをさせておきたかった。
保津川沿いのトロッコ列車に乗せ、確かこの時だったと思うが、下山後はなんばグランド花月で桂三枝の落語を聞かせた。未信徒の家から嫁いで来た妻には、高熊山参拝にプラスαが必要だった。
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三月二十六日(火)は入蒙記八章「聖雄と英雄」から十二章「焦頭爛額」まで。今回は、難しい神格論や政治・軍事情勢の説明もあったが、参加者から「ノー天気」との感想があった奉天から洮南までの珍道中記もあった。この珍道中記、吉本新喜劇で上演されても好評を得るかもしれない。
難しいことは理解できなくても、「ノー天気」な珍道中記は誰でも楽しめる。妻が生きていたならきっと理解できたであろう。
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〔神格論〕八章「聖雄と英雄」。出口聖師の御神格が明示されている。また、年齢ごとの御神格の変遷は、御神格とは何かを考える上で貴重なお示しである。加えて、出口聖師が「伊都能売御霊」「弥勒最勝妙如来」「基督」という神道、仏教、キリスト教での最高の御顕現や救世主であることを、世界中に宣伝する使命が我々にはある。
「神素盞嗚尊の聖霊…五拾弐歳を以て伊都能売御魂(弥勒最勝妙如来)となり」(八章「聖雄と英雄」次も同)
「弥勒の下生なりけり」
「基督の聖痕迄も手に印し」
〔政治・軍事情勢〕九章「司令公館」。廬占魁が出口聖師を救世主として頭に戴き、軍事行動を起こした経緯と、当時の政治・軍事情勢で、張作霖が廬占魁を上手く利用せんとした思惑について、わかりやすく説明してある。
「盧占魁は…救世主を頭に戴いて内外蒙古に活躍すれば成功疑ひなしと、確信」(九章「司令公館」次も同)
「張作霖は…盧占魁を利用して…内外蒙古を完全に吾手に入れて見たいと思ふ野心」
〔珍道中記〕一○章「奉天出発」~一二章「焦頭爛額」。この珍道中記は十三巻(二二章)「高加索詣」を思い出させる。婆さまの洟汁が混じっているのを知らない弥次彦に、与太彦が握り飯を食わせる場面など。この「おかしみ」も霊界物語の世界である。
入蒙では、廬占魁らが射殺される悲惨な現実がある。その一方で、岡崎鉄首が出口聖師を中国人にしたり日本人にしたりして、官憲をあしらう「ノー天気」な場面もある。
この様子は、まさに霊界物語が持つ「おかしみ」の世界である。現実の悲惨さを「おかしみ」が和らげているようだ。
「岡崎さん、支那の巡警や軍曹に向つて、南清方面の豪商だといひ、日本の官憲に向つては日本人だと…ナアニ構ふものか…三寸の舌鋒で吹き飛ばせば宜しい…アハアハヽヽヽ」(一一章「安宅の関」)
(令6・3・28記)
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