入蒙に同行した合気道の始祖植芝盛平氏の特集が、『ムー』誌二〇二四年八月号にあった。「超能力」「神秘スピリチュアル」など表紙にある。
植芝氏が、大正八年に父親の病気平癒の依頼で、初めて出口聖師を訪ねたとか、入蒙中、銃撃戦で銃弾より先に飛んで来る「光のツブテ」が見えて、銃弾をかわしたとかいう話があった。
また、蒙古から帰国後、大地からふきあがった黄金の気が身体をつつみ、自分自身も黄金体と化した感じがしたという植芝氏の体験は、出口聖師の「身体から黄金色の光が放射してゐた」(入蒙記一九章「仮司令部」)という話を連想させる。
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こうした体験を得たのは、植芝氏が出口聖師の忠実な弟子であった証しであろうし、次に示すことは、まさに宣伝使の働きである。
「宇宙の根源神を、大虚空中の一点に現れたポチ(ヽ)から生じた「ス」の言霊の神であるとし、「ス」から「ウ」が、「ウ」から万物・万象の言霊が展開していったとする、王仁三郎流の言霊説を、終生忠実に踏襲していた」
この『ムー』誌の掲載文は、天祥地瑞七十三巻(一章「天之峯火夫の神」~六章「言幸比女の神」)にある言霊による至大天球創造の御教えである。
また、合気道には、天鳥船の行という船漕ぎ運動があるというが、これは七十五巻(一章「禊の神事」)の「天の鳥船と称する禊の神事」、「気合と共に艪を漕ぐまゝの動作」と一致している。
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七月二十九日(月)の勉強会は、入蒙記二○章「春軍完備」から二三章「下木局子」まで。
大正十三年二月十三日、出口聖師らが日本を発たれて二月後の四月二十八日、下木局子(索倫)に着かれた。
救世主が蒙古救援軍を起こすというので人々が集まり、出口聖師を総大将とする「内外蒙古独立救援軍」が編成された。
「大救世主を盧が奉戴して蒙古救援軍を起すと云ふので…素晴らしい人気で…蒙古の王…馬隊等が集り来り…瞬く間に…幹部の編成が出来上つた」 (二一章「索倫本営」)
なお、入蒙の経路は、その後昭和七年三月建国の満州国の領土の中をほぼ通っている。
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救援軍編成後、下木局子滞在中の描写に、出口聖師に関することや不思議がいくつか出て来る。
「成吉思汗が蒙古…に兵を挙げてから六百六十六年…本年は三六の年」(二二章「木局収ケ原」次も同)
「日本武尊が…向へ火をつけ、且叢雲の神剣にて草を薙ぎ払ひ…故事を思ひ出し…佩刀を抜き…草を薙ぎ…向ひ火をつけ…天の数歌を奏上」
「軍需品の中には西王母の服や…宣伝使服等、日出雄の必要品が」(二三章「下木局子」次も同)
「忽然として西北の空に大彗星が出現」
「蒙古人の額に手を軽くあて、洗礼を施し」
(令6・8・2記)
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