平穏な日常のありがたさ(レポート33)

勉強会レポート

 昨年十二月二十六日、勉強会が終わってまもなくして、お母さんが亡くなったという電話が入った。亡くなられたのは多賀谷(ゆかり)さん(九三歳)で、かつて私のインタビューにより「台湾時代の思い出」(「愛善世界」誌平成二十七年七月号)を語っていただいた方である。生前から頼まれてもおり、私が葬儀の斎主をさせていただいた。

 二十八日、招魂式が終わって会葬者に少し話をした。その中で多賀谷さんの九年前の短歌、 

「草原にまろびて夫と仰ぎたる空の蒼さを思い()だしぬ」(「愛善歌壇」平成二十六年六月)

を紹介し、亡くなられて三十年が経っても、なおご主人を恋しく思っておられるが、人は死後、直ちに天界に復活し(五十六巻「総説」)、夫婦は(あめ)八街(やちまた)で会える((たま)(いしずゑ)一)とあり、多賀谷さんは、霊界で恋しいご主人に会っておられるだろうということ。

 また、天国に行けば、男性は三十歳、女性は二十歳(四十七巻一八章「一心同体」)であり、きれいな多賀谷さんは、天国ではさらに妙齢の美人になっておられるに違いないことなどを述べた。

 翌二十九日の告別式の誄詞(しぬび)では、多賀谷さんが出口聖師とのかかわりの中で信仰を育んで来られたことを、「台湾時代の思い出」から引用した。

◇台湾生まれの多賀谷さんの両親は熱心な大本信者で、父親が彰化(しょうか)支部長をしていた家に、多賀谷さんが生まれた昭和五年と五歳の昭和十年頃、出口聖師と二代さまが泊まっておられること。

◇五歳の昭和十年の第二次大本事件の折、父親が出口聖師から直接いただいた御手代を警官から守るため、母親がお米の中に突っ込んだが、その御手代を家の宝として終生大事にしたこと。

◇昭和二十年の空襲の中、出口聖師の観音像が真二つに割れて身代わりとなり母親と妹が救われたのを目の前にして、信仰を固くしたこと。

 なお、ご遺体が寝かされてあった御神前の間には、出口聖師の「山越のみろく」の写真が掛けてあった。「国宝『山越阿弥陀図』の阿弥陀如来は自分だ」(身に添う神々さま『愛善世界』誌令和五年九月号)と言われているようなみろく様の下生たる出口聖師が、臨終に当たって多賀谷さんを優しく迎えに来られたに違いない。帰幽された二十六日の夜は美しい満月であった。

 勉強会は、五十五巻五章「飯の灰」から七章「朝餉」まで。万公がテームス家の若主人ぶってはしゃぎ、掃除や調理などの家事の仕方を細々(こまごま)と教える。

 畳の目に添って(ほうき)で掃く。掃き掃除が済んだら、箒を吊っておく。火を()く時は、炎の先が鍋の底に当たる程度。梅雨時期は水に塩気があり、妙な黴菌(ばいきん)()くので充分に(たぎ)らす。きめの粗い水は曹達(そうだ)を溶かして洗濯に用いる。毛織物は冷たい水に漬けても悪い等々。

 家事の具体を語り、難しい教理や厳しいお(さと)しもない。ある種の余裕を感じる。元日に起きた能登半島地震の被災者の皆様には、心からお見舞い申し上げるところであるが、改めて平穏な日常のありがたさが身に染みて来る。

(令6・1・6記)

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