〇今も生きる特高組織と治安維持法
戦前、大本を弾圧した特高は、戦後も内務省「公安課」、各警察本部「警備課、公安課」と組織を変え、また、特高官僚は一旦公職追放の対象となったものの処分解除となり、旧自治省や警察庁等の上級幹部に復職し、その組織を保全している。
その具体例がある。現在『愛善世界』誌に「連続エッセイ 深夜のそぞろ歩き」を執筆中の大類善啓氏が編集人である『星火方正』に掲載されたものである。
「敗戦時に内務大臣で、岸信介に近かった安倍源基は、A級戦犯容疑で一旦は逮捕されたものの…不起訴・釈放になった。初代の警視庁特高部長で、就任翌年(一九三三年)には、特高警察によって十九人が拷問死しているにもかかわらず…。戦後は…警察行政の中央集権的一元化実現に力を注ぎ、旧内務官僚出身者を中心とする自民党右派…で活躍」
(野崎朋子『星火方正』二六号〈二〇一八年五月〉)
ところで、昨年八月二十三日の深夜十二時過ぎ、ふと目が覚めると、ついたままのテレビの「Eテレ」で「治安維持法十万人の記録、自由はこうして奪われた」という番組が流れていた。
大本の弾圧には触れていなかったが、気になる発言が放送されていた。現在においても政府が治安維持法の正当性を保持し続けていることである。
番組で、平成二十九年六月の衆議院法務委員会での金田勝年法務大臣の答弁が流された。金田氏は「治安維持法は当時適法に制定され、拘禁拘留は適法」との認識を示していた。では、判決で治安維持法が無罪となっても、同法による拘留で信者十人あまりが拷問死したことは、適法な中でのことであったということなのだろうか…、それはおかしい。
「治安維持法は当時適法に制定されたものでありますので、同法違反の罪に係ります拘留拘禁は適法でありまして、謝罪及び実態調査の必要もないものと思料をいたしております」
(平成二十九年六月 衆議院法務委員会 勝年法務大臣の答弁)
大本を弾圧した特高は組織を変え、今も生き続け、また、治安維持法も正当化されている。つまり、戦前の国体保持の思想は、今も生き続けているというべきであろう。
実際、出口信一氏開催の出口王仁三郎作品展で、公安関係者二名が目撃されており、「みろく下生」たる教義を掲げる大本は、なお監視・取締対象であるらしい。
〇聖師の御神格を明らかにする
伊佐男氏が昭和四十二年四月に教典刊行会代表に就任され、霊界物語と大本神諭が、それぞれ昭和四十二年八月と翌昭和四十三年十一月から刊行が始まっている。
そして、昭和四十六年七月に霊界物語の天祥地瑞までの発刊が終了し、また同年十一月に大本神諭の刊行が完了している。また、時期を同じくするように、昭和四十四年四月から出口和明氏が大地の母の執筆を開始し、昭和四十六年十月に全十二巻の発行が完了している。
戦後「聖師を救世主とは言わない」という約束がなされて、実に二十年を経てようやくみなが読める教典を、我々は手にすることができたのである。
戦前の霊界物語は当局の検閲を受け、削除箇所もあった。また聖師は、昭和九年から十年にかけて詳細な校正をされている。この聖師「校正本」に基づき、昭和三十四年に一旦、三十四年版が出されたが、活字が小さく、ふりがなもないなど読みづらいものであった。これを解消し読みやすくなった霊界物語が、昭和四十二年に刊行されたのである。
また、大本神諭は「直接聖師の命を受けた」と伊佐男氏が言われて編さんされたものである【註17】。氏は昭和四十四年四月に腸に腫瘍が発見されるが、入院中も作業をされたとのことである。
さらに『大地の母』は、聖師の救世主たることをわかりやすく世に知らしめたものであるが、この発行に際し、伊佐男氏が各巻の全題名を付け、また、三代様も真実を書くよう勧められるなど、お二人が強く後押しをされている。
◆伊佐男氏が各巻の全題名を命名
(一巻《梅花一輪》二巻《立春の光》‥‥‥十二巻《永久の道》)
(『松のひびき』九九~一〇〇頁)
◆三代教主「いっさい嘘はいけない。…真実だけを書くのやで。大本の見苦しいところも何も全部さらけ出しなさい」…原稿の段階からくまなく目を通し、間違いがあれば教えるほど…三代教主の強い後押し
(『大地の母』成立の経緯愛善苑ホームページ)
【註17】「発表はお前にまかせる」
(『大本教学』 第六号)
霊界物語、大本神諭、大地の母のすべてが世に出た昭和四十六年から二年後の昭和四十八年五月、教典を世に出し、聖師の御神格を明らかにするというお役が済んだかのように伊佐男氏は帰幽されている。
なお、昭和四十二年九月に伊佐男氏は杭迫氏とテレビに出演されている。聖師の救世主たる御神格を示した霊界物語がその前月八月に刊行されていた。聖師の御神格を世に知らしめ、余裕を持って臨まれたのだろうか、あるいは、なお警戒して、気を引いておく必要があったのだろうか。
ここで、改めて「聖師の御神格を隠した」あるいは「社会運動を制限した」事柄を「●」、一方「聖師の御神格を明らかにした」事柄を「〇」で並べてみる。
●昭和二十年十二月 大本事件解決奉告祭挨拶
●昭和二十三年一月 聖師葬儀誅詞「崇められ」
●昭和二十七年四月 大本教法「単に瑞霊」
●昭和二十八年四月 聖師伝「みろく下生なし」
●昭和二十九年十月 出口榮二氏副総長更迭
●昭和二十九年十月 主会長会議「三代教主伊都能売御霊論」
●昭和三十七年九月 出口榮二氏総長更迭
●昭和三十九年二月 「大本七十年史刊行」
―昭和四十二年四月
伊佐男氏教典刊行会代表―
〇昭和四十二年八月~昭和四十六年七月
『霊界物語』校定版刊行
〇昭和四十三年十一月~昭和四十六年十一月
『大本神諭』刊行
〇昭和四十四年九月~昭和四十六年十月
『大地の母』刊行
―昭和四十八年五月 出口伊佐男氏帰幽―
こうして年代別に並べてみると、改めて戦後昭和二十年から三十九年までの不可解な「聖師の御神格隠し」の歴史は、弾圧を逃れるためのカモフラージュ、教典発刊までの方便であったことがよくわかる。
なお、霊界物語の刊行が昭和四十二年に始まっているが、刊行の終りは昭和四十六年七月である。そして、最後の第八十一巻は七月十八日発行で、その翌八月の七日が「聖師生誕百年記念瑞生大祭」であった。
つまり、みろくの大神が出口聖師として出生され、「苦・集・滅・道、道・法・礼・節」を説かれた『霊界物語』【註18】が、読みやすく世に出たのが、まさに聖師生誕百年の節目であった。時節到来の御神意を感じざるを得なかった。そうすると「聖師の御神格隠しの歴史」は、その時節が到来するまでの「忍耐の期間」だということになる。
―昭和四十六年―
七月十八日『霊界物語』刊行終了
八月七日(土)「聖師生誕百年記念瑞生大祭」
九月一日(水) 旧七月十二日聖師誕生日
【註18】『錦の土産』
「弥勒出生して五十二歳茲に改めて苦集滅道を説き道法礼節を開示すと仏祖の予言せし所は即ち伊都能売の御魂の口を通ふして現はれたる霊界物語である」 (大正十二年旧十月十二日)
〇霊界物語と第三次大本事件
ところで聖師は、第二次事件と霊界物語の関係について、「警察の手を借りて霊界物語を取り上げることで、逆に信者に霊界物語が示す教えの尊さを悟らせた」【註19】と言っておられる。これをヒントに、この霊界物語の刊行について考えれば、「警察からの再弾圧をしのぐため、懸命に忍耐をしていたところ時節が到来し、読みやすく誰もが親しめる霊界物語を信者は与えていただくことができた」というようなことが言える。
従って現在は、霊界物語で誰もが聖師の「みろく下生」たる御神格を理解できる状態にある。よって、霊界物語さえ拝読すれば、カモフラージュたる「三代教主伊都能売御霊論」など吹っ飛んでしまうはずである。
しかるに、旧弾圧側の杭迫氏に通じる宇佐見龍堂氏が大本内部に総長として入り込み、再び「三代教主伊都能売御霊論」を用いて「聖師の偉業は幻」【註20】などと、あたかも旧弾圧側の勝利宣言のようなことを言っている。また、今の大本本部もこれを引き継いでいる有り様である【註21・22】。
これはあたかも「警察(=宇佐美氏)の手を借りて霊界物語を取り上げられた状態(=霊界物語にない『三代教主伊都能売御霊論』などを信奉)」である。よって「信者に霊界物語が示す教えの尊さを悟らせる」ために、再度、大本事件として第三次が必要だと「みろくの大神」が思われたのではないだろうか。
【註19】小山弁護士への言葉
「霊界物語を読めといっても読まないから、神様が警察の手をかりて取り上げになった。人は手もとになくなると恋しがって、血まなこになって読みだす。読んで初めて教えの尊さがわかる。…事件が起こらなかったら誰も教えの真価を理解しない。勉強するよう神様から仕向けられた。一人に教えがわかれば万人にわかる。一人にわからなかったら、永久に土に埋もれてしまう」
(『第三次事件の真相』二六六頁 要約)
【註20】開祖大祭での宇佐美総長挨拶
「三代教主様、現教主様が瑞・厳二霊を統一させられまして伊都能売御霊として‥この現界にすべてのものを修理固成、つくりかためさせられるのが、三代教主様、教主補佐様の御神業‥。
聖師様の御構想、御神業というものは一旦事成りましたが、ことごとくこの地上から弾圧のためにかい滅した…今日では聖師様の御偉業というものは幻として残っているだけ」
〔昭和五十九年開祖大祭 宇佐美総長挨拶〕
【註21】「教主は二大教祖と等質的な存在」
(平成二十一年七月提訴:要荘・掬水荘明渡請求での本部主張)
【註22】教主が神の代行者
「大本には、その時代の教主が、開祖、聖師以来の道統を継承し、地上における神の代行者として…大本信徒は、その時代の教主を通して、神に対して『主一無適の信仰』を捧げている」
(大本本部ホームページ「反教団事件の本質」平成二十八年六月二十九日現在)
〇開教百年目の霊界物語
昭和四十二年、我々は読みやすい霊界物語を得て、ようやく聖師の御神格を理解できることとなった。しかし残念ながら、まだ完全な霊界物語ではなかった。この昭和四十二年校定版には、国祖御隠退に関する箇所で悪質と言える改ざんがあった。
聖師が、霊界物語を詳細に校正されたことを先に述べたが、第四巻第四十二章「無道の極」にある「大神」の前に、「盤古」を加えておられる。加えずとも文意はわかるが、「盤古大神」とすることで、国祖の地位にとって代わらんとする八王大神の野心が、盤古大神の承認を得たものにすぎないことを明確にされている。
ところが、昭和四十二年校定版では、聖師が「盤古大神」と校正されたにもかかわらず、「天の大神」とされている。「盤古」が「天の」になるのであるから、意図的な改ざんである。これでは、八王大神の野心が「天の大神」の承認を得た正当性なものとなり、聖師の意図とは全く逆となる。この悪質な改ざんは、まさに第四巻第四十二章の章題どおり「無道の極」にほかならない。
これを発見した信徒連合会では『愛善世界』平成五年五月号や七月号で、「根本教典に人為の手を加えてはならない」など厳しく指摘するとともに、内容を説明した文書を全国に発送した。
大本本部は、これに反応したかのように『愛善苑』平成五年七月号において、「事務上の不始末」との理由で、当時本部が発行していた『霊界物語』修補版の当該箇所の訂正を発表している。
実は、この四十二年校定版の改ざんが発見されたのは、「開教百年」に当たる平成四年の十二月から順次、愛善世界出版社版の『霊界物語』が発刊される中でのことである。改ざんの詳しい内容も第四巻「あとがき」に記してある。
なお、愛善世界社版『霊界物語』の編さんは、聖師「校正本」に忠実に行われ、また、難しい語句には「注」を施し、「追注」で聖師「校正本」との関係を丁寧に説明している。加えて単行本としての発行は、より霊界物語を身近なものとした。
第三次事件の最中、開教百年にして我々はより聖師のご意思に沿った『霊界物語』を得ることができた。この霊界物語をもって「信者に教えの尊さを悟らせよう」とされる「みろくの大神」のご意図を感じざるを得ない。
〇最後に
私は、出口伊佐男氏について、「教主生き神信仰」を大本に浸透させた張本人だとして、ずっと快く思っていなかった。
また、聖師が『錦の土産』で伊佐男氏に絶対的な信頼感を寄せておられても、それをなかなか受け入れることができなかった。
「宇知丸は瑞の御魂の分霊にして大八洲彦命の精霊の再生なり。月の手によりて成れる神示のプログラムに由りて選まれたる役員信者を総指揮すべき因縁にして霊魂上より云えば瑞月の実子なり。神界の経綸に付き一切を神示しあり。故に宇知丸の言は瑞月の伝達なり。その思慮また瑞月の思慮なり。故に大本人は皆その指揮に従うべし」
(『錦の土産』大正十二年十月十四日)
しかし、この文章を作るなかで伊佐男氏に対する見方がだんだん変わって行った。そのきっかけとなったのが、『松のひびき』にあった伊佐男氏の夢の話である。亡くなられる一月前に、聖師の夢【註23】を見ておられたのを読み、少し心持ちが変わった。
その後、これまで紹介してきたように、出来事の一つひとつを年表に落としていきながら最晩年の様子を見て、実は聖師の御神格を世に顕す御用をされていたのではないか、また、伊佐男氏を詠まれた余白歌のある霊界物語第三十九巻に示されている「惟神的の八百長」【註24】のように、時期が来るまで旧弾圧側に対するカモフラージュの作 業をされておられたのではないかと思い始めた。
【註23】聖師の夢
「居並ぶ信者、群衆の前に名を呼び出され、ずっと進んで行くと、正装された聖師に招かれて、手ずから宝刀を授けられた」
(『松のひびき』一一六頁)
【註24】惟神的の八百長
ヨセフ『…本当の事を教へてやらう。実の所は…三五教の宣伝使依彦さまとは俺の事だぞ。バラモン教の内情を探るべく鬼熊別の部下…』
イール『…三五教の宣伝使が三五教の黄金姫に取つて放られるといふ…』
ヨセフ『そこは貴様等を詐る為に、八百長で一寸放られて見たのだ』
イール『何と高価な八百長だのう。一つ違へば命がなくなる様な八百長…』
ヨセフ『さうだから三五教の宣伝使照国別さまがやつて来て命を助けてくれたぢやないか。要するに惟神的の八百長だといふ事が今分つたのだ。アハヽヽヽ』
○余白歌(初版本)
大八洲彦の命の精霊の
宿る宇知麿心赦すな
人々の頭に立たむ身魂には
醜の曲霊のねらうものなり
鮮やかな月照る庭に咲匂ふ
八重の花の香殊に美はし
(第三十九巻第一二章「種明志」)
○
ところで私は、今からちょうど十年前の平成二十一年四月の初め、予定されていたかのような逃れようもないアクシデントに会い、ある方のために結局、三年半の病を得た。
その間、その理不尽さをずいぶん恨みに思った。しかし、病が癒えてその方に直接会いに行ったとき、不思議にも瞬時にその恨みが消えた。
しかも直説話してみると、私のことをずいぶん気にかけてもらっていたこともよくわかった。また、亡くなった妻を詠んだ私の歌集に一番丁寧な手紙をいただき、「うちの女房も泣いてからのお」とも言ってもらい、その方への見方がすっかり変わった。
同時に、人を恨むことが自分自身を苦しめていたことにも気がついた。今回、この原稿を書き進むなかで、これに似た気持ちの変化を伊佐男氏に対して感じた。
それにしても、伊佐男氏はなかなかわかりにくい方であるが、三代様や四代様はよくわかっておられた。
愛善の道に一生を貫きし宇知麿を知る人いくたりありや
(出口直日『松のひびき』二頁)
「表面に出さなかった愛情がわからず叔父の心を知ることの出来なかった自分を省みているこの頃です」(出口直美『松のひびき』五頁)
(令和元年11月23日記)
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