阿良田 浄・藤井 盛
四月二十四日は、第五十一巻第一七章「狸相撲」から第二一章「夢物語」まで。今回は「油断と慢心の罪」がテーマである。
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徳公と初公が、妖幻坊の妖術に欺されて豆狸たちと相撲をとっていると、ランチ将軍に仕えていたケースが通りかかる。ケースは、自分が欺されていることにも気づかずいっしょに相撲をとる。ケースは自分が日の下開山の横綱だと過信し、糞ツボにはまって体がヌルヌルとした初公と相撲をとる。
すかしを食らって敗れたケースは自暴自棄になり、相撲柱を引き抜き、初公、徳公に打ちかかり、三人は入り乱れて戦い、ついに力尽きて倒れてしまう。見物していたたくさんの狸は腹鼓を打ち、笑いながら帰って行く。
狸に欺されていたことに気づいた初公ら三人が川で体を洗っていると、三人分の笠と蓑、衣類が降ってくる。神様に叱られた狸がくれたのだと神様に感謝するが、その実、半ば腐った菰であった。
そこへ、ランチ将軍の副官であったガリアが通りかかり、初公らから高姫と妖幻坊の話を聞く。そこで、三人は金剛不壊の如意宝珠を取り返し、また、囚われている松姫を救わんと萱野が原の奥へと進んで行く。すると、城の大門近くに八人の美女がいて、また、初花姫に案内されて入った部屋で、初稚姫から妖怪退治を手伝ってほしいと頼まれる。
そして、物語の最後には「アアしようもない、第五十一巻の瑞月霊界物語、狸に欺された奇妙奇天烈な八畳敷の大風呂敷に読者を包んだ夢物語は、安閑坊喜楽の嘘八百万の大神の神示」とあり、読者たる我々自身もまた、狸に欺されたような形になっている。
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今回の話は、兇党界の霊である妖幻坊や狐狸に欺されることを信じることができなければ、単なる荒唐無稽の話に終わってしまうのだが、ガリヤは、自分が妖幻坊の妖術に欺されたのは、結局「油断と慢心の罪」だと述懐している。これが、今回の大きなテーマである。
「慢心」は執着心から来るものである。過去のちょっとした成功体験が重なり、自信という慢心を生み出す。それが災いとなってものに固守して執着心を生み出し、そこに悪魔のつけ入る隙を与えることになる。また、「油断」も同じで、成功体験がなせる技である。常に謙虚で一切を神に任せる行動が大切である。
なお、こうした油断や慢心は我々凡夫だけのことではない。第十五巻に、太玉命(=三葉彦)が素盞嗚尊の命により、バラモン教の鬼雲彦を帰順させるため顕恩郷へ向かう途中、邪神の魔術で現れた渓谷に行く手を妨げられる話がある。これは、活津彦根命の警告を無視して進んだ油断と慢心によるものである。
ところで、高姫や妖幻坊は、特定の人物ではなく、我々が持つ醜い面を現わしているのだと聖師が言われたと『新月の光』にある。
(令3・5・5)
〔『愛善世界』令和3年7月号掲載〕
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