⑱吉田松陰と出口王仁三郎聖師

松陰神社 「愛善世界」誌掲載文等

                    藤井 盛

 黒船来航の幕末に、深く国を憂えた孝明天皇と吉田松陰、これら二人と出口王仁三郎聖師との関わりをまとめ、今また時代の転換期にある今日(こんにち)、特に松陰の行動力から、我々の信仰のあり方を考えてみた。

〇大本との関係が強い玉(たま)鉾(ほこ)神社

 平成二十七年八月二十二日、愛知県武豊町にある孝明天皇を御祭神とした玉鉾神社を、愛善苑の村山浩樹さんの案内で参拝した。

 天皇は信仰心が厚く、国家の重大事に勅使が遣わされた「二十二社参り」や「切紙神示」など、長く途絶えていたこれらの神事を宮中に復活されている。「切紙神示」は、切った紙で現れた文字で御神意を伺うもので、天皇はこれにより出口なお開祖と出口王仁三郎聖師の出現を予言されている。【註1】

 その予言は、幕末、蛤御門の変で鉄砲の玉が玉座にも飛び来るなか、孝明天皇をお守りした旭形亀太郎氏に託され、氏は明治三十二年、玉鉾神社を創設した。 神社には、聖師手彫りの小ぶりの御神像が御神体として大事に扱われ、また、艮の金神と坤の金神もお祀りしてあり、私は親近感を強く抱いた。

聖師作 御神像

【註1】 救世主は「火」霊と「水」霊の二大神であってアジアの日本 タンバ アヤベに 出口ナヲ 出口ヲーワニと顕現する
           (玉鉾の神遺勅 口述 佐藤徳祥)

         (参考)『玉鉾神社参拝のしおり』

〇孝明天皇を讃える吉田松陰

 嘉永六年(一八五三)、二十四歳の吉田松陰は、来舶のロシア軍艦に乗り込もうとして長崎に向かった。  

 この途中の京都で、梁川星厳から、孝明天皇が深く時勢を憂いておられることを聞き、恐懼感激し、「今皇聖明の徳、天を敬い民を愛する」とある「山河襟帯の詩」を作っている。

 ところで松陰の生涯は三十歳と短いが行動的で、二十一歳から二十五歳まで全国を広く歩き、西は長崎から北は青森まで、また佐渡にも渡っている。

 その動機は、自身が学んだ山鹿流兵法では、アヘン戦争で清を圧倒したイギリス軍などの西洋列強の軍事力には太刀打ちできないことを知り、その西洋兵学を学ぶためであったり、また、ロシアの南下政策に対する北方警備についての騒動があった現場を訪れたりするためなどであった。  この間、佐久間象山や宮部鼎蔵などの多くの人や書物にも会い、日本の守りや自身の兵学をつくりあげるため、直接、松陰自身が外国に渡って西洋文明の姿を見聞することを決意するのである。

吉田 松陰

〇松陰を下田で詠む聖師

 さて、長崎に向かった松陰であるが、ロシア軍艦はすでにそこになく、次に、安政元年(一八五四)二十五歳のとき、下田の柿崎から再来のペリー艦隊に乗り込もうとしたが、またしても果たせなかった。

 なお、この後、松陰は幽閉の身となるが、最初に送られた萩の野山獄で、以後用いた「二十一回孟子」の号を、霊夢【註2】で授けられている。 

 聖師もまた、日本全国を巡られ、弾圧で六年八ヶ月の未決監があるが、松陰が船に乗り込もうとした下田の柿崎で松陰のことを詠まれている。昭和八年六月発行の第六歌集「山と海」の中にある。

 松陰が渡米せんとてとらへられし柿崎に来つ涙ぐましも

 松陰が英魂永久に残れるかこの柿崎の浪に聲あり

 松陰の名をとどめたる柿崎の浪とこしへにみ代を洗へり

 「涙ぐましも」とか「英魂」「み代を洗ふ」など聖師は松陰を大いに讃えている。

下田港

【註2】「夢に神人あり。(あた)ふるに一刺(刺:なふだ、名刺)を以てす。(その)文に曰く、二十一回孟子と」(幽囚録「二十一回孟子の説」『吉田松陰全集』第一巻)

      (「孟」は試練に対し勇猛心を(ふる)う意味) 

〇聖師と松陰の似かよう辞世

 松陰は、安政六年(一八五九)三十歳で、江戸に送られ処刑されるが、「留魂録」という遺書を残している。その巻頭の歌。

 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂

 死してもなお、大和魂の誇りは永く留めおくのだという強い意思が伝わってくる。一方次は、聖師が入蒙され、パインタラで銃殺刑に遭わんとされた時の辞世である。

 よしや身は蒙古のあら野に()つるとも日本(やまと)男子(をのこ)(しな)は落さじ
    (『霊界物語』入蒙記第三四章「滝口の難」)

 聖師の歌は、松陰の歌の「武蔵」を「蒙古」に置き換えたもので、和歌でいう本歌取りである。

 先に、聖師の柿崎での歌を紹介したが、私は、この松陰を讃える歌を見つけたからこそ、聖師の辞世が、松陰の辞世の本歌取りであると確信した。

 辞世とは、その生涯の集大成とも言える。その辞世を用いるということは、聖師が松陰の生涯を認め、厚く讃えているということに他ならない。 ではなぜ、これほどに聖師は松陰を讃えるのだろうか。

〇非常時への危機感

 孝明天皇と吉田松陰、そして聖師に共通するのは、まず、非常時たるその時代への憂慮、危機感である。孝明天皇の切紙神示では、

 「日本のミ九サ(三種)の神タカラ と ヒノマルのミハタをベーコクは ウバウタクミ ユダンスルナ」

 とあり、松陰もまた、

 「今般亜美利駕(アメリカ)夷の事、実に目前の急、乃ち万世の患なり」(「将及私言」)

 と記し、いずれもアメリカへの強い警戒感を示している。また聖師も同様にアメリカに関して、

 「やがては降らす(あめ)()()の、数より多き迦具槌に、打たれ砕かれ血の川の、憂瀬を渡る(くに)(たみ)の、行末深く憐れみて」(大正六年大本神歌〔一〕)

 と予言されている。

 また、聖師は昭和に入って、「非常時国家の今日忌々しき大事」(『霊界物語』第七十八巻「序文」)と、時代の危うさの認識とともに、「『一旦緩急アレバ義勇公に奉じ』て起たなければならない」(昭和九年『皇道大本の信仰』)と、併せてその実行の必要性を訴えられている。まさに言心行一致【註3】である。

 【註3】「言心行一致の為に朝夕を神の御前に(ふと)祝詞宣る」愛善世界社版『霊界物語』第四十七巻第四章「余白歌」

〇勇壮活発な活動力

 ところで、「活動力」について、『霊界物語』入蒙記第二章「神示の経綸」にこうある。(概略)

 「開祖は出修により、勇気のない信者を有為な者とするため、荒波猛る冠島沓島に自ら渡られるなど、勇壮活発なる模範を示されたが、その精神を汲み大活動を行う勇者が出なかったため、自分もまた、模範を示すため入蒙することとした」

 開祖や聖師が、実際に自ら身を動かし模範を示してまで信者に求めた「勇壮活発な活動力や行動力」を、まさに松陰に見出したがゆえに、聖師は松陰を讃えたのだと、私は思う。

 何より、松陰が黒船に乗り込み、その「行動力を発揮」した下田の地において、聖師が松陰を讃える歌を詠まれた意味は大きい。

〇時代の新たな展開のなかで

 松陰が辞世を詠み、その死から時代は明治維新へと新たな展開となった。そして、その松陰の辞世を本歌とする聖師の辞世の歌碑が、昭和六年九月八日本宮山に建てられ、その十日後の九月十八日、太平洋戦争の発端となる満州事変の勃発という、時代は新たな展開となった。

 そして、この辞世と併せて本宮山に建てられた大本教旨【註4】により、聖師の救世主としての御神格が明らかにされている。

 戦後七十年目の一昨年平成二十七年、幕末や太平洋戦争とまた同様にアメリカとの関係のなかで、その軍事同盟の強化を巡って、時代がまた新たな展開を見せようとしている。

 我々は、こうした時代の展開のなか、「活動力」を発揮し、救世主の手足となって働く有為な宣伝使となりたいものである。

 最後に、「活動力」について述べられた「神力と人力」(第六十七巻第六章「浮島の怪猫」)を示しておきたい。

神力と人力

一、万物は活動力の発現にして神の断片なり。

一、人は活動力の主体、天地経綸の司宰者なり。活動力は洪大無辺にして宗教、政治、哲学、倫理、教育、科学、法律等の源泉なり。

一、人は神の子神の生宮なり。而して又神と成り得るものなり。

一、人は神にしあれば神に習ひて能く活動し、自己を信じ、他人を信じ、依頼心を起すべからず。

一、世界人類の平和と幸福のために苦難を意とせず、真理のために活躍し実行するものは神なり。

一、神は万物普遍の活霊にして、人は神業経綸の主体なり。霊体一致して茲に無限無極の権威を発揮し、万世の基本を樹立す。

 【註4】神は万物普遍の霊にして 人は天地経綸の大司宰也 神人合一して茲に無限の権力を発揮◎    (昭和四十四年『大本教学』第六号)

 〔全般的な参考〕(財)山口県教育会発行『維新の先覚 吉田松陰』、日本計量新報(平成二十九年一月一日号 物理学者で日本人初の国際度量衡委員の田中舘愛橘(一)        

松陰の足跡

         (平29・1・6記)
〔『愛善世界』平成29年4月号掲載〕

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