歌集 妻千枝

短歌

◇◇プロポーズ〔昭和五十六年春〕

桜花(さくらばな)打ちに打つなり雨の日の夕暮れ方を君と歩めり

雨霞(あまがすみ)錦帯橋はおぼろにて春の嵐に一日(ひとひ)は暮れつ

吾が妻にと(なれ)に告げたり食事終え雨降りしきる外に出でしとき

「嫁はんに来んか」と告げれば「本当ですか」といぶかる(なれ)

吾が妻にとついにぞ(なれ)に告げし日は春()(あらし)の激しかりけり

 

◇◇結婚式披露宴にて〔昭和五十七年三月十四日〕

この(むすめ)大事にせねばと思いつつつくづく見にけりおまえ吾が妻

 

◇◇妻との日々

 (大本信徒連合会機関誌「愛善世界」にある『愛善歌壇』での掲載年月号)

◇妻との出会いは茶道

還暦の妻と揃いて初茶会妻との出会いも茶会でありき  (平二九年五月号)

和服着て妻は嬉しみまた吾も(はかま)(すが)しく初釜に臨む  (平二六年四月号)

◇妻との信仰生活

薄氷(うすごおり)割りて手水(ちょうず)に手を清め天王平(てんのうだいら)に妻と(をろが)  (平二五年三月号)
                  〔天王平‥京都府綾部市にある大本の出口なお開祖、出口王仁三郎聖師、出口すみ子二代教主などの墓所〕

第二次の事件記念日十二月八日に妻と赤山に立つ  (平二六年三月号)
                 〔第二次事件‥昭和十年十二月八日未明、大本第二次弾圧事件開始。出口王仁三郎聖師は、大本島根本苑の赤山で拘束された〕

本苑の秋の大祭和服着る妻に惚れ直したかと皆が聞く  (平二九年二月号)
                 〔本苑の秋の大祭‥大本山口本苑秋季大祭〕

大祭のお茶席係の妻と()が帰りの車に眠りいるなり  (平二六年二月号)

洗濯と風呂の掃除を妻終えて吾が家の朝拝(ちょうはい)今朝も始まる  (平二八年一月号)
                 〔朝拝(ちょうはい)‥毎朝、祝詞(のりと)や讃美歌を奏上し大神様へ礼拝を行うこと〕

◇妻との旅

旅にいる妻はいつでも上機嫌今年最後の淡路の旅でも  (平二九年三月号)

遷宮の大社の千木(ちぎ)の空高く和服の妻を()らにメールす  (平二五年八月号)

                 〔大社…出雲大社 千木(ちぎ)‥屋根のむねの両側に交差させた長い木材〕

携帯の待ち受けにせし世界遺産富士背景に妻と並びて  (平二六年一二月号)

◇妻と孫

孫あやす妻のその声かくまでも優しくあるを聞きしことなし  (平二七年二月号)

幼児向けの曲に合わせて妻歌う孫に聞かせる声はソプラノ  (平二八年七月号)

吾が父も孫を「あんた」と呼んでいるなあ母さんよ僕だけじゃあない  (平二八年三月号)

「じいじい」の発音確かに難しい孫は「ばあばあ」と言い始めたが  (平二八年四月号)

◇日常さまざま

吾が家での結婚式が近づきて妻まず網戸の掃除始める  (平二六年一月号)

メール歴浅き妻なり娘へと送る文面ひらがなばかり  (平二六年八月号)

黙すまま()ねたる妻がこの(あした)荒くはあれどもの言ひくれぬ  (平二六年一一月号)

 

◇◇妻の入院・妻との別れ

◇入院と退院

入院の妻の頭を洗いやる「まだ強く」など注文受けつつ  (平二九年一一月号。次も)

「さびしいね」などいう言葉いつ知るや「ばばいないから」と孫言いて後の

日常は平穏なりけり退院の妻といっしょに洗濯物干す  (平二九年一二月号)

◇帰幽

「父さんが来るよ」と(むすめ)が妻に言い止まりかけたる息戻るとぞ
                 (平三〇年一月号に投稿。以下も)

到着す吾にぞ顔向け目を合わす妻は確かに吾待ちてをり

生きている最後の温もり妻の胸に手を当て最後のお取次(とりつぎ)をなす
                 〔お取次(とりつぎ)御手代(みてしろ)を通して(あま)数歌(かずうた)天津祝詞(あまつのりと)を奏上し、必要としている人に大神様の御幸(みさちは)いを取り次ぐこと〕

取次(とりつぎ)終えなば目を閉じ息も止み妻は静かに()きにけるかな
                 【帰幽 平成二十九年十月三十日 午前四時】

妻と吾(むすめ)二人の親と子が相揃いたり最期の別れに      

◇十二夜の月

十二夜の月の光の安けさよ妻の葬儀が終わりし夕べの  (平三〇年二月号に投稿)

 

〔追記〕

「◇帰幽」にある五首の短歌は、大本信徒連合会の機関誌「愛善世界」に投稿した次の文章がもとになっている。

妻の帰幽に至る経緯や「お取次(とりつぎ)」の意味について述べている。

妻の昇天と「お取次」

 私の妻は、平成二十九年十月三十日未明、六十歳で亡くなりました。

 妻は膵臓ガンの治療で再入院していました。亡くなる日の前日に、妻の様子が急におかしくなりましたので、夜は上の娘が病院で付き添いました。

 すると夜中三時に、娘から病院に早く来るよう連絡がありました。急な血圧低下などがあったというのです。また、私への連絡の後も、妻の呼吸が止まりそうになりましたが、「お父さんが来るよ」と言うと持ち直したそうです。

 私が、下の娘、それと二人目の孫とともに三時四十分に着くと、妻は私の方をはっきりと向き、目を合わせました。そして、私は直ぐに「お取次」を始めました。

 お取次は、妻の膵臓ガンがわかってから、ずっと毎朝行ってきたことです。入院してからも家から遠隔お取次を行い、「これからお取次と大神様へのご祈願をするよ」とメールをすれば、「わかりました」と返事がありました。

 天の数歌と天津祝詞が済むとともに、妻は目を閉じました。呼吸も落ち、本当に眠るようにすっと息を引き取りました。三時五十分でした。心臓が四時ちょうどに止まりました。

 私と娘二人が見守るなか、何ら苦しむことなく、安らかに天国へ昇天していきました。

 妻は、明らかに、私と下の娘が来るのを待っていました。そして、我々夫婦と娘二人は揃って、きちんと現世での最後の別れを互いに交わすことができました。

 妻の千枝は、未信徒の家から嫁いできました。それが、率先して神様を拝むようになり、人生の最後まで一生懸命神様にすがっていました。

 今回よくわかったのは「お取次」とは、決して病気直しのみではなく、神様に取り次ぐこと、神様にまみえるよう取り次ぐこと、信仰を持たすよう取り次ぐことだということ。そういうことが、本来、宣伝使として行うべき「お取次」ではないか、そんなふうに思うようになりました。

 しかも、それが、最期の場面で、昇天するのを妻が、私や娘たちが揃うのを待ち、また、私がその妻を、神様に取り次ぐといったことをまざまざと「証し」のように見せられたことは、私や娘たちにとって信仰的確信につながり、また、妻もその役割を理解したものと思います。

 招魂式に薬剤師の友人が来ていました。

 今回、妻の膵臓ガンがわかってから、いろいろと相談をし、手術の是非など彼の助言によるところが多くありました。

 その彼が言うには、医師が手術ができると判断した場合、普通十キロ痩せて骨と皮だけのガリガリになる、そして二、三年、苦しみ回るものだということでした。確かに医師も手術後は十キロ痩せると言っていました。

 ところで、亡くなる前日の午前中、医師は、明日、つまり、結果的に亡くなった日になりますが、血液検査をして、腫瘍マーカーの数値などを見ようと言っていました。

 つまり、腹水が溜まり、妻はきつそうにはしていましたが、経験ある医師の目からしても、早急な死の予測は全くなかったということです。

 確かに妻は、亡くなる日の前日の午後三時ごろから、亡くなった翌日午前四時までの約半日間は、結構苦しがっていました。しかし、その意識はかなり朦朧としたものになっており、意識がはっきりしたなかでの苦しみの認識ではなかったと思います。

どういう医学的メカニズムで死に至ったのかはわかりませんが、妻の苦しみは、通常、膵臓ガンで考えられる過酷な苦しみとは、期間的にも程度的にもほど遠い軽さであったということです。これは、病気に対しての「お取次」の直接的なおかげだったと思います。

また、愛善荘から「おひねり」(註)を二回ご下付していただきました。膵臓ガンがわかり手術をした時と再入院して急に体にむくみが出た時です。妻は亡くなる前日から容体が悪化しますが、その前日に最後の「おひねり」を妻は自らいただいています。

こうして、その死に顔は、今までどおりの若さを保ち、しかも穏やかに微笑みさえも浮かべているようなきれいなものでした。

(註)「おひねり」‥大本教主が半紙に墨を記して、大神様に病気平癒を祈念したもの。

 

 ところで、女房の母親も膵臓ガンで逝きました。五年前です。

 母親が自宅で寝込むようになってから、妻は毎週、山口から岩国までの約百キロを、自分で車を運転し、私に代わって母親に「お取次」をしました。当時私はうつ病で、それはそれは体がきつくて起きていることもできず、横になったまま岩国行きに付いて行っていました。

 その母親もそう痩せることもなく、一言もきついとは言いませんでした。また、最後に入院しましたが、点滴が血管に入らなくなって、その処置をするためのものでした。

しかも、母親は亡くなる一時間前に看護師に水が欲しいと頼み、おいしいおいしいと言って飲んで、次に看護師が見回ったときには事切れていたそうです。

 妻は、母親のこうした苦しみのない闘病の有り様を見ていましたので、「お取次」の効果を妻は身をもって知っていました。ですから、「お取次」を受けることへの期待感を大きく持っていたと思います。それは無論、早くよくなりたいというものだったと思いますが、いつも真剣に、私の「お取次」を受け、そして一生懸命に瑞の御霊の大神様に祈っていました。

 私との出会いで神様を知り、また、大本の信仰を得た妻の一生は大きな意味があったと思います。

そして、現界でのお役を早々に終え、その霊体を肉体で成長させて故郷なる天国へ帰って行きました。私は、人生の目的をいつも人の前でそう話していますが、今後は実感を持って話すことができます。ただ、妻が亡くなったのは四日前です。やはり当然のことながら、妻との現界での別れは、悲しくもあり、寂しくもまた、つらくもありますが。

 生きている最後の温もり妻が胸に

    手を当て最後のお取次をなす

         (29・11・4 記)

 

〔後記〕

 食欲不振を訴えてわずか三ヶ月で帰幽してしまった妻の千枝のために、ふと、歌集ができないものかと思った。

 平成二十五年から投稿してきた「愛善歌壇」に、妻を詠んだ短歌が結構あった。これらと結婚式の栞に載せた短歌とを合わせると三十二首になった。

 これまでの感謝を込め、また、天界での御幸(みさちは)いを祈念し、妻の五十日祭の霊前に供えるべくこの歌集を()んだ。

長野県皆神山での妻と私(27.9.13)

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