五月二十四日、第五十二巻に入った。第一章「真と偽」の愛と善に関する次の文章から、ボランティア活動に話が及んだ。お示しに沿うかどうか、動機が不純であっても、結果としていいことをしていれば、何もしないよりはいいのではないかなどの意見もあった。
『善を愛するといふ事は、其善に志し、其善を行ふや、皆愛に依つてなすの意味である。故に愛を離れたる善は、決して如何なる美事と雖も、善行と雖も、皆地獄の善にして所謂悪である』〔第五十二巻第一章「真と偽」〕
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話の中で、柳生好春さんが、稲盛和夫氏や浄土真宗のボランティア活動に関する言葉などを紹介された。後日、この内容をお聞きしたところ、次の返事があった。
『まず、京セラ創業者の稲盛和夫さんの言葉です。物事を新たに始めるとき、「動機善なりや、私心無かりしか」と常に自問自答されます。
また、浄土真宗には「慈悲」について二つの「慈悲」があり、一つは「聖道の慈悲」でありもう一つは「浄土の慈悲」です。
「慈悲」とは、他者を慈しみ悲しむ利他の心を言い、「慈」は「すべての他者の苦しみを抜き去ろうとする心」を指し、「悲」は「すべての他者に喜びを与えたいとする心」とされます。
利他を重視する大乗仏教ではどちらも必須とされていますが、「歎異抄」では「聖道」と「浄土」の「かわりめ」があると言われています。
「聖道の慈悲」とは自からによって慈しみ悲しみの利他的行為を完成させようとする聖者の精神を言います。一方、「浄土の慈悲」とは「念仏」によってすみやかに覚りをひらいて仏となり、大いなる慈しみ悲しみの心によって、思い通りに衆生を救うことを言います。
親鸞は先に挙げた「聖道の慈悲」によって他者を憐れみ、悲しみ、育んでも、思い通りに助け遂げることは極めて困難だと述べます。「おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし」であり、「今生に、いかに、いとおし不便とおもうとも、存知のごとく助けがたければ、この慈悲始終なし」と述べます。
そこで浄土真宗の一部に「支援活動は聖道の慈悲であって、親鸞の説く浄土の慈悲とは異なるのではないか」とする疑念、あるいは「ボランティアは自力であって、親鸞の他力思想に反するのではないか」といった非難があるようです。しかし、私が読んだ「ボランティアは親鸞の教えに反するか」の著者、木越康氏(大谷大学教授)は様々な角度から浄土真宗の教義に照らしてもボランティアは肯定されると主張します』
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そして、こう締めくくられた。
『この話を紹介したのは「大本の教義」に照らして様々な社会的現象、行動をどう位置づけ解釈するかといった作業の必要性を感じたからです。それが大本人としての行動(奉仕)の促進につながり、「現代に生きる教学」ではないかと思います。出口榮二先生はそこを常に意識しておられたように思います。現実の「世界の出来事をみて改心してくだされよ」(開祖様)をよく引用されました。
こういう作業は時に精神と対象の間に緊張関係をもたらします。「経験とは対象と自己との障害意識と抵抗の歴史」とは森有正(哲学者)の言葉です。自己には大本人としての自己も含まれると思います。
教義が棒を飲み込んだように自己の中にある状態は理想ではありません。大本の「善」と「悪」も現実の問題の中で論じていくことが重要と考えます』
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私は、感想を次のように述べた。
『柳生さんの文章中の次の言葉に、大いに同感しました。
◇「大本の教義」に照らして様々な社会的現象、行動をどう位置づけ解釈するか。
◇教義が棒を飲み込んだように自己の中にある状態は理想ではありません。
大本の信仰は、単に自己研鑽を目的としたものではなく、自己を信仰で磨くことで、社会を弥勒の世に立替立直される大神の「容れ物」となることだと私は理解しています。
みろくの世にするという積極的な社会への働きかけの中で、我々信仰者が教義をいかに理解し、それをいかに社会の人々に理解してもらうか、そういった社会に対する姿勢、行動が必要だと思います』
(令3・5・28)
〔『愛善世界』令和3年8月号掲載〕
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