㊹満州事変と出口王仁三郎聖師~三谷清氏の大きな御用~

「愛善世界」誌掲載文等

 昭和六年九月十八日、満州事変が勃発した。満州国が建国され、日中戦争から太平洋戦争へと至った。聖師は国家弾圧を引き込み、第二次大本事件を太平洋戦争の型となして、日本の軍備撤廃をなした。

 聖師が積極的であった満州国建国や太平洋戦争の発端となった満州事変には、信者の三谷清氏の大きな御用があった。

○仲哀天皇と華山(げさん)

 山口県下関市にある大本山口本苑の北方十キロメートルに、標高七一三メートルの華山がある。

 この華山西ヶ岳山頂で、南九州の熊襲鎮圧の軍議を、仲哀天皇が開いたという民話が地元に残る。天皇ら一隊が華山に向かい船で川を上り、十二艘の舟が着いた所に「十二艘」という地名が残る。さらに馬に乗った所には「馬立処」の石碑が、今も建っている【註1】。

 この華山は、仲哀天皇が、熊襲鎮圧の際に七年滞在された行宮(あんぐう)豊浦(とよらの)(みや)【註2】から、直線距離約二十キロメートルと近い。また、華山西ヶ岳山頂には仲哀天皇の(ひん)葬所もある。((もがり):本葬までの仮安置)

 民話ではさらに、仲哀天皇が山頂から海を見られて、

「高き(ところ)に登りて西の(かた)を見れば国土(くに)は見えず、ただ大海あるのみあり」

と言われたとある。古事記にある言葉である。

 この山頂に、私は、二年前の平成二十七年三月、愛善苑の村山浩樹氏と登った。山口県は本州西端にある。その三方を海に囲また地形をまさに実感した。また、仲哀天皇が見られたであろう、西方に遠く広がる玄界灘も見た。

 なお、村山氏はこの時のことを書かれている【註3】。

華山西ヶ岳山頂の仲哀天皇殯葬所から見た西の海

 【註1】「小日本昔話」菊川町教育委員会

 【註2】豊浦宮があったのは、現在の下関市長府の忌宮(いみのみや)神社の場所

 【註3】愛善苑「神の国」誌 平成二十七年七月号「皇道経済論の原点を訪ねて」

○西の国の宝

国土(くに)は見えず」と仲哀天皇が言われたのは、(きさき)(おほ)(きさき)(おき)(なが)(たらし)()(めの)(みこと)(神功皇后)が帰神(神懸かり)された時の託宣への返事である。この託宣も古事記にある。

 民話に従うと、神功皇后は華山で託宣を受けられたことになる。聖師は、この古事記の神功皇后の帰神のところに、「一厘の仕組」が示してあると言われている【註4】。

「西の方に國有り。金銀(くがねしろがね)(はじめ)として、目の炎耀(かがや)種種(くさぐさ)の珍しき寶、(さは)にその國にあり。吾今その國を()せたまはむ」()せ‥帰服)

 聖師は、この神功皇后の言葉を、大正六年の「大正維新に就て」の中で、「皇祖の遺訓」と示しておられる。その遺訓は、現代経綸の根本変革を促すものだと言われている【註5】。

 同時に聖師は、日本国民はこの遺訓を理解せず、「黄金万能の弊政」を最上の経綸策だと心酔していると嘆いておられる。また、

 そもそ世界の争乱と人生不安の禍因を根絶するには、第一着に現代の金銀為本の国家経綸策を、根本より変革せなければならぬ

とも言われている。国家経済を金銀を基としたものとはせず、天産物自給や租税制度の廃絶などによる「世界大家族制度」の実施を訴えておられる。

 これは、「愛善世界」誌平成二十九年九月号に掲載された出口榮二先生の文章にある霊界物語第六十四巻下の「資本主義への批判」にも通じるのではないだろうか【註6】。

 僕の人生(発禁前:君の仁政)はどこにある ‥資本主義なる世の中は‥大罪悪の酵母だよ ‥    キャピタリズムの賜だ 不労所得の賜だ ‥生き血を吸うたり膏をば ねぶって喰う        資本主義‥何とかせねばなろうまい 悪逆無道のこの制度 〔第六十四巻下第八章「義侠心」〕

【註4】木庭次守著「新月の(かげ)」八幡書店版下巻 三〇一頁。神功皇后に懸かられたのは、天照大神と住吉三神の厳瑞二霊。神功皇后は、聖師の産土神社である小幡神社のご祭神開化天皇のひ孫の娘。

【註5】「神霊界」大正六年三月号。出口王仁三郎著作集第二巻 一五八頁(読売新聞社)。ほぼ同内容:「皇道維新に就て」昭和九年六月発行 出口王仁三郎全集三四九頁(みいづ舍復刻)。

【註6】言論弾圧の嵐の中で① 出口榮二

○みろくの世の宝

 この「金銀(くがねしろがね)(はじめ)として、目の炎耀(かがや)種種(くさぐさ)の珍しき寶」に関連ある箇所が、新屋三右衛門氏が書かれた「愛善世界」誌平成二十九年六月号の「未来の資源エネルギーと気候」の中にある【註7】。

「竜宮の御宝」である「金銀銅鉄水鉛石炭木材食物」が「寒い国の広い所」にある。(要約)〔伊都能売神諭 大正八年八月二日〕

安爾泰(アルタイ)地方から新彊(シンキヤン)西蔵(チベツト)(さかい)の方面」には「金の岩」が沢山隠され、鉱物のみでなく新彊は神の経綸に枢要な場所、「天恵の豊富な土地」(要約)〔入蒙記 第二九章「端午の日」〕

 また、村山氏も書いているように日本書紀にも次の記述がある。

 韓郷(からくに)の嶋には、(これ)金銀(こがねしろかね)有り〔巻第一 神代上第八段〕  

 ところで、この「宝」のことを、聖師から直接聞かれた方がいる。戦前に奉天憲兵隊長であった三谷清氏【註8】である。

 三谷氏は熱心な大本信者で、昭和四年に満州に渡ってこられた聖師から聞かされたことを、昭和三十四年の「おほもと」誌に載せておられる【註9】。

「満州、シベリアはみろくの世のために大事な宝が地下に隠してあり、今は冬期酷寒の地であるが、その時には気候が変わり、温暖なよい土地になるはずだから、そのつもりで満州、シベリアについてよく研究しておきなさい」〔おほもと 昭和三四年一月号「四十年の信仰を顧みて2」〕

 三谷氏はその後、昭和六年九月の満州事変に参加し、昭和七年建国の満州国で行政官となっておられる。戦後はソ連軍に捕えられるが、この間、聖師から言われた「みろくの世の宝」を研究されている。

 満州国時代には、満州東部全域から南満州の資源調査や開発を行い、埋蔵資源の豊富さを確認されている。また、終戦後の抑留の五年間には、シベリア及び中央アジア一帯八カ所の地に移されるなかで、土地々々の風土や開発状況の一端を観察されている。

【註7】ただ一方で、村山氏が紹介した聖師の著書「皇道維新と経綸」には、特定の国に宝があるわけではないとある。 

【註8】三谷清夫妻は熱心な大本信者として、大本七十年史下巻・九七頁に出ている。

【註9】「おほもと」誌 昭和三三年四月号「聖師さまと満州」 昭和三三年十二月号 ~ 昭和三四年三月号「四十年の信仰を顧みて」

〇三谷氏の大きな御用

 聖師は三谷氏に対して「大きな御用」があると言われている。

「あなたにはなお満州で大きな御用があるので、内地へは帰れません。相当長く満州に居ることとなりましょう」

(元奉天憲兵隊長)三谷 清氏

 みろくの世の宝」の研究以外にも、三谷氏には大きな御用があった。昭和十八年に一時帰国した三谷氏に対して聖師は、

「どんなことがあっても私が守護しておりますから、何時でも親船に乗っているつもりでおりなさい。‥‥必ず護ってあげますぞ」

と言われている。

 三谷氏は、昭和二十二年の抑留中、急性肺炎に(ろく)膜炎併発という死線から奇跡的に助かっている。それ以前も昭和八年、乗り物の転覆をあらかじめ予感し、転覆時にも軽傷ですんでいる。また、昭和十五年には襲撃を予感し難を逃れている。こうしたご内流やご加護が実際にあった。

 こうした聖師のしっかりとしたご守護のなかでの「大きな御用」が三谷氏にあった。

○本宮山教碑と満州の経綸

  話は変わる。昭和六年九月八日、教碑が本宮山に建立された。

  神は万物普遍の霊にして 人は天地経綸の大司宰也 神人合一して茲に無限の権力を発揮(す) 

 この人のヒは神霊、トは留まる。◎は主神のス。聖師が主神、天のみろく様の神霊を宿したご神格【註10】であることを、明確に刻んだものである。

 ところで、教碑は、昭和六年以前の大正十二年十二月には、すでに本宮山に伏せて置かれている。そして、翌十三年に聖師は入蒙をされている。

 また、昭和三年三月には、聖師は主神の顕現たる「みろく下生」を宣言されている。なぜ、この時も通り過ぎて、昭和六年まで教碑の建立を待たれたのだろうか。

 それは、入蒙が、その後の満州事変、満州国建国へとつながる一連の流れの中にあるということ、それを示しておく必要があったからではないかと私は考える。その証拠となるのが、教碑とともに本宮山に建立された歌碑に刻まれた一首である。

 よしや身は蒙古のあら野に朽つるとも日本男子(やまとをのこ)(しな)は落さじ〔入蒙記第三四章「竜口の難」〕

 聖師が、大正十三年六月の入蒙の折、パインタラで銃殺刑に遭わんとされたときの辞世の歌であるが、これは吉田松陰の辞世の本歌取りである。

 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂〔「愛善世界」平成二九年四月号掲載〕

吉 田 松 陰

 聖師の辞世の歌は、吉田松陰が武蔵の野辺に魂を留めたように、聖師もまた蒙古に魂を留めて、「日本男子(やまとをのこ)(しな)」、つまり「主神の神格」による経綸を、聖師がこれから行わんとすることを意味されたのだと私は考える。  

 そして、昭和六年九月八日、本宮山に聖師の神格を示した教碑と蒙古での経綸を意味した歌碑とが並んで建立された。つまり、満州で主神の経綸が実行されるとの宣言がなされたのである。

本宮山の教碑(向かって右)と歌碑(左)

 その宣言に沿ったかのように、十日後の九月十八日に満州事変が起きる。聖師は実際にこう言われている【註11】。

「今度の満州事変といひ‥神界の経綸が実現の緒についた‥」

〔「教碑」と「辞世」の歌〕

  大正12・12・9 本宮山に「教碑」が伏せて置かれる。

  大正13・2・13 聖師 入蒙

  大正13・6・21  パインタラ遭難で「辞世」の歌

  昭和3・3・3  聖師 みろく下生

  昭和6・9・8  本宮山に「教碑」「辞世」の歌建立

  昭和6・9・18  満州事変勃発

  昭和7・3・1 満州国建国

  〔参考〕

  平成16・6・21 パインタラ遭難80年目 台風6号聖地を抜ける(⑰パインタラ事件後80年目の台風~数運は天運と相合す~)

  令和3・9・8 本宮山「教碑」「辞世」建立90年目 台風14号東進(㊱台風14号と「9月8日のこの仕組」~本宮山教碑建立九十年目の異例な台風~)

【註10】大本教学第六号(教学研鑽所編) 大本教旨について(木庭次守)を参考

【註11】昭和七年二月、大本瑞祥会第五回総会。大本七十年史下 九五頁

○聖師・神素盞嗚尊・神功皇后

 入蒙の意味について出口信一先生は、「かつて、救世主たる神素盞嗚尊がウブスナ山へと向かわれたルートを、聖師もまた尊の化身たる救世主として、その踏むべき所を踏んで行かれたことだ」と述べておられる【註12】。

 神素盞嗚の大神は ‥百千万の罪咎を

 御身一つに贖ひつ‥千座の置戸を負ひ給ひ

 ‥天の真名井を打渡り 唐土山(もろこしやま)(から)の原

 印度(つきの国をば打過ぎて‥由緒も深き西蔵(チベツト)の  

 ‥猶も進みてフサの国‥ウブスナ山の山脈に〔第十五巻第一九章「第一天国」〕

 入蒙の中で聖師は、救世主の(あかし)を身体的特徴で示されている。掌中のキリストの十字架上の釘の聖痕からの出血や背中のオリオン星座の三つ星のほくろなどである。

 また、そのルートについてである。朝鮮半島の三韓時代の高句麗の領地は、満州国と重なった所がある。高句麗のあった所を「韓の原」とすれば、素盞嗚尊は満州国となる所を通られたことになる。また、聖師の入蒙ルートもほぼ満州国の中であるから、満州国を共通として、聖師は素盞嗚尊のルートの一部を歩まれたことになる。

満州国(緑)・高句麗(黄)・入蒙ルート(赤)

 ところで、明治十三年、高句麗があった所で「好太王碑」が発見された。この碑文には、倭国が三九一年に朝鮮に攻め込んだ記述がある。

 これが「西の国に宝あり」と言われた神功皇后の軍だとすれば、神功皇后もまた、満州国となる所に行っておられたことになる。

 聖師と神素盞嗚尊と神功皇后とがみな、満州の地に立たれている。

好太王碑〈391年神功皇后が高句麗に攻め込む〉

【註12】「救世の船に」愛善出版社 二〇一・二〇二・二一一頁

○満州国建国に積極的な聖師

 入蒙記を読むと、聖師の救世主としての評判が蒙古に広まりながら、面白おかしく続く旅行記のように見える。

 しかし一方では、廬占魁を使って内外蒙古を手中にしたい張作霖と、聖師が総帥となった「内外蒙古独立救援軍」の軍事的対立の記録でもある。特に結末は生々しく、聖師がパインタラの銃殺場に向かう道端には、廬占魁の多くの兵が死骸となっている【註13】。

 この大正十三年の入蒙の後、昭和六年の満州事変をきっかけに、同七年、満州国が建国されるが、「内外蒙古独立救援軍」とあるように、入蒙の段階ですでに聖師は、満州国独立に向けて動いておられたことになる。

 そして満州事変が勃発すると、聖師は満州国建国に向けて積極的に動いておられる。その具体的な行動が、大本七十年史下巻に記されている。

◆昭和六年九月二十四日 出口日出麿総統補を満州へ派遣。(九七頁)

◆九月二十五日に上京し、軍人や政治家と会談。

◆九月二十八日、清王朝顧問の川島浪速(なにわ)とその養女、清王朝王族の王女「男装の麗人」川島芳子と面談。その折、その後満州国執政となる溥儀を日本に隠すことを話す。(以上一○七頁)

「男装の麗人」川島芳子氏

◆十月六日、大島豊【註14】から溥儀・宣統帝推戴に関する現地の状況連絡がある。(一〇八頁)

◆聖師を救世主と信じる道院・世界紅卍字関係者が、宣統帝を擁立して独立国を建てようとしている。

◆「満蒙問題解決方策大綱」研究委員長の参謀本部作戦部長建川少将と会合し、満州への宣統帝擁立で意見が一致。(以上一一○頁) 

溥儀 満州国執政

 聖師はこのように、満州国への清朝廃帝の溥儀擁立に積極的である。昭和七年三月一日の満州国建国にも聖師は祝電を送り、また、聖師の子供と言われる大石ヨシエ氏【註15】を遣わしている。大石氏は四月三十日、溥儀執政夫人への面謁【註16】を果たしている。

大石ヨシエ氏
出口聖師

 ところで、昭和七年二月、聖師は「蒙古が独立すれば、日本が経済封鎖を受けても、日本本国は自給自足できる」【註17】と言われている。

 昭和六年から各国の金本位制が崩れ始め、世界経済がブロック化した。そして、経済封鎖を受けた日本が太平洋戦争に突入するのは、昭和十六年十二月である。十年先を見据えた聖師の発言である。

【註13】入蒙記 第九章「司令公館」、第二一章「索倫本営」、第三四章「竜口の難」 

【註14】昭和七年四月、聖師引退を画策。壬申日記(四月一二日)東京の大島豊とひ来たり‥(四月一四日)‥改革は鉾をさめ‥。東洋大学学長。昭和三十七年、出口榮二総長更迭を三代教主に進言。

【註15】明治三十二年京都生、衆議院議員。著書「あほかいな」:聖師と会見、満州行きを勧められる。霊界物語第三七巻第二章「葱節」:多田亀と妙な仲、情夫などとある。 

【註16】愛善苑「神の国」二〇一五年四月号 昭和七年の『壬申日記』大石芳枝氏、三谷夫人らと溥儀執政夫人に拝謁。

【註17】入蒙記「大本の経綸と満蒙」

〇露国の悪神

 話は「竜宮の御宝」に戻る。先に紹介した伊都能売神諭を再び取り上げる。

「竜宮の御宝」である「金銀銅鉄水鉛石炭木材食物」が「寒い国の広い所」にある。(要約)〔伊都能売神諭 大正八年八月二日〕

 このお示しの前の部分には、この「竜宮の宝」が狙われていることが書かれてある。

 是から(さき)になると露国の悪神さえ()う堀り出さなんだ竜宮の御宝(みたから)を、今度は英米西大国(えべすだいこく)が自由に致す仕組みを致して居るが、此の宝は今度の二度目の世の立替のかみの宝で、昔から隠して有りたので在るから、体主霊従(あく)国魂(くにたま)には自由には致させんぞよ

 露国や英米西大国(えべすだいこく)には、「竜宮の御宝」は自由にはさせないとある。これらの国が「体主霊従(あく)の」国魂(くにたま)」とは強烈な表現である。

 露国や英米西大国(えべすだいこく)の西洋列強の中国侵略が始まるのは、一八四〇年のアヘン戦争からである。吉田松陰もこの列強の中国侵略を知り、時代への危機感を抱いたが、一八九八年(明治三十一年)ごろには、列強は租借権や鉄道敷設権を清国から得るに至っている。

 なお日本も、一九〇五年(明治三十八年)には租借権などを得ているが、この伊都能売神諭が出たのは、こうした列強侵略の状況にあった一九一九年(大正八年)である。

列強の中国侵略1900年(明33)頃

 ところで、一九〇五年(明治三十八年)に日本が日露戦争で勝つきっかけとなったのは、日本海海戦である。

 この海戦が始まった明治三十八年五月二十七日は、沓島で開祖が元伊勢の神水を竜宮海に投げ入れられた明治三十四年五月二十七日から、ちょうど四年目に当たっている【註18】。

 また、ロシアのバルチック艦隊が日本海に向かう様子を、その後大本信者となる秋山眞之参謀がまどろみのなかで見せられ、海戦で日本軍が勝利することとなる【註19】。

 日本海海戦での日本軍の勝利にはご神意を感じるのだが、戦争に勝った日本は、満州の権益を得て、ロシアを満州から撤退させている。伊都能売神諭にあるとおり「竜宮の御宝」を露国は掘り出せなかったということになるのであろう。

 また、太平洋戦争終結により、欧米列強・英米西大国(えべすだいこく)の中国侵略も終わる。

【註18】大本神諭(天声社版)第二巻・明治三四年旧六月十日 沓島 四月十日(新暦五月二七日)

【註19】「大地の母」下巻 四二・四四頁  出口和明著 (株)いづとみづ 

○聖師と石原莞爾

 大正六年十二月に聖師が作られた「大本神歌」が、昭和六年ごろに再発刊された。シベリア線につながる満鉄が導火線となり、やがて日米戦に至るという予言だと言われた。当局を刺激し、昭和七年二月に発禁処分となっている【註20】。

西伯利亞(しべりや)線を花道に‥やがては降らす(あめ)()()の‥打たれ砕かれ血の川の、(うき)()を渡る国民の‥〔大本神歌(一)〕

大本神歌は瑞能神歌の中にある

 このアメリカとの日米決戦が「世界最終戦」になると、満州事変を起こした関東軍作戦参謀石原莞爾氏は信じていた。

 また、石原氏には、将来、東方アジアを東亜諸民族の大同団結したものとするためには、満州に諸民族協和の理想郷たる新国家建設の必要性があるとの考えがあった。これを陸軍省などに説いて回っている【註21】。

「関東軍参謀」石原莞爾氏

 聖師もまた、アジア大陸にご神業があり、入蒙には意義があると言われている。

 素盞嗚尊様の御神業は亜細亜の大陸にある‥自分が蒙古に入ったのも‥意義のあることで‥〔玉鏡「亜細亜大陸と素尊の御職掌」〕

 まるで、石原氏が三谷氏から聖師のことを聞いたかのように、聖師と石原氏は、日米戦やアジア重視、満州国建国について共通したものがある。 

 さらに、もっと現実的な接点について書かれた本があった。軍事クーデターでの接点である。

 昭和六年十月に、首相以下を暗殺し、軍部の内閣を実現せんとするクーデターが計画された。「十月事件」と言われた。

 このクーデターは、関東軍とも綿密な連絡がなされ、石原氏らも現地で活動していたが、これに聖師が信徒四十万人を動員して支援に立つ約束ができていたというのである【註22】。同じことが別の本にも書かれてあった【註23】。

【註20】大本七十年史下 一一六・一一七頁

【註21】「石原莞爾」二二頁 楠木誠一郎著 PHP文庫

【註22】「日本の歴史〔24〕ファシズムへの道」三三〇頁 大石力著 中公文庫

【註23】「昭和動乱の真相」九一頁 安倍源基著 中公文庫

〇民族協和・王道楽土

 石原莞爾は「満州を諸民族協和の理想郷とする」ことを考えていたが、三谷氏も同じことを「おほもと」誌で語っている。

 在満中国人および日本人の幸福と平和の楽土地帯を作るべき‥①民族協和、②王道楽土を目標に、新しい国を建てるべき‥

との満州国建国理念について、

 建国理念達成こそは、わが大本の教義に通ずるものとの確信の下に‥聖師様から‥満州の御用とは、『これである』とのお言葉も承りました。

 三谷氏は、聖師から「大きな御用」と言われ、信仰的確信をもって理想郷たる満州国建設に、「全身全霊」(三谷氏の表現)を傾注されている。

 ところで、三谷氏は満州事変について「おほもと」誌には、「不幸なる満州事変がぼつ発」「満州事変に参加」「緒戦から作戦に参加」と記しているが、もっと詳しく記した本があった【註24】。

 決行か中止か決められなかった‥割り箸を立てて‥右へ転んだら中止‥石原莞爾の日記にも、「‥午前三時まで議論の結果、中止に一決」とある‥

 関東軍内部では、奉天郊外の柳条湖付近の満鉄線路の爆破をするかどうかを、迷っていたというのである。ここに三谷氏の名前が出る。

 やはりここまで来たらやってしまおうじゃないか、と今田新太郎や三谷清ら若い強行派の声が高く、再び「やるか」という空気になった‥

 満州国は、満州事変がなければ建国されなかった。ここに三谷氏の大きな御用があった。

【註24】「昭和史 1926→1945」七一・七二頁 半利一利著 平凡社ライブラリー  

(平29・10・28記)

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