八月二十七日の瑞生大祭に参拝した。四月のみろく大祭、弥仙山岩戸開き百二十年記念祭典(註1、註2)、そして、七月の高木明彦さんの葬儀に続く今年四回目の参綾となった。瑞生大祭後の七夕祭にも参拝したが、最終日は初めてのこと。開始が午後四時で、山口への帰宅が遅くなるが、参拝には理由があった。
綾部の神宮本宮が、月の大神になられた五六七の大神様が、日の大神様とともに「天を固めに御上り遊ばした霊場」であり、またそこで、天地の神々が昇り降りをされ、集会や相談をされたと伊都能売神諭(大正八年三月一日号)にある(註3)。これは、現在の七夕祭(註4)にも通じており、そうした霊場に身を置きたいと思ったのが、今回の七夕祭参拝の直接の理由である。
私は、四月のみろく大祭の前日、出口聖師が修業された高熊山に登り(註5)、また岩戸開きの神事があった弥仙山にも、直接身を置いた。
これらの霊場に関して、新たに意識することがあったが、七夕祭においても、御神体たる本宮山に向かい主神の御名「大天主太神」を唱えた時、大神様との一対一感や、これまでにない気持ちの入りようを強く感じた。
(註1)YouTube藤井盛「弥仙山岩戸開き一二〇年記念祭典
(註2)『愛善世界』誌令和五年七月号『愛善世界』誌への投稿十年目―弥仙山岩戸開きを考える―
(註3)YouTube藤井盛「五六七の大神」
(註4)『玉鏡』「神庭会議」「再び七夕祭について」
(註5) YouTube藤井盛「出口聖師の二回目の高熊山修業」
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八月二十九日の勉強会は、五十四巻二二章から附録「神文」までと五十五巻「序文」まで。
バラモン軍鬼春別、久米彦両将軍の改心で五十四巻が終わる。また「神文」は、第一次大本事件前の幽斎修行の際に奏上された祝詞。その文中には「中津御代より、邪さの教説ども伝はり」という仏教を邪教と思わせる箇所がある一方で、「外国の教にもあれ、正語は正語としてひらひ得さしめたまへ」ともある。
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五十五巻「序文」には、無量寿経をベースとした部分がある。これは、「死神死仏を葬りて 最後の光は墓を蹴り 蘇へらすは五六七神」(十巻「総説歌」最後の光明)とあるように、霊界物語が仏典を蘇らす説明となっているのではないか。
〔無量寿経〕「たとい、もろもろの功徳を作ることあたわずとも…一念に、かの仏を念じて…(いのち)終わるときに臨んで、夢のごとくにかの仏を見たてまつりて」
〔霊界物語〕「譬え諸の功徳を成す能はずとも…厳瑞二神を一意専念せば…臨終に際し正に夢の如くに厳瑞二神即ち日月の神を見たてまつりて」
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五十四巻「神文」に「神と吾等と相親しみ、睦み」との表現がある。同様に、前述の伊都能売神諭(大正八年三月一日号)にも「澤山の眷属も在る事なり。何とか致して立派な天地を造り上げ、萬の眷属の楽しく暮すやうに致したいのが、我の大望」との六六六の大神様の御言葉がある。
難しい言葉だけではなく、御教えに、こういう優しい言葉があると素直に救われた気がする。 (令5・8・31記)
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