〇妻との三つの旅
「お父さんが行くのは大本のところばかり」
三年前の平成二十九年十月に他界した妻が、ある時期からこう言い始めた。妻を大本の行事に連れて行くため、なるべく前泊や観光を入れるようにした。
今回の文書は、妻が亡くなるまでの一年間に妻と行った三つの旅からできたものである。
一つ目の旅。平成二十八年七月鳥取大山での「世界平和祈願祭」に参拝して、神島開きに関係する出口王仁三郎聖師のお軸に出会った。
二つ目の旅。翌二十九年三月の大阪分苑春季大祭へ参拝し、神武天皇ゆかりの生國魂神社に出口聖師がよくお参りされていたことを知った。
三つ目の旅。同年八月、西宮の娘の家に行くのに併せて、これが妻との最後の旅と思いつつ神武天皇を祀る橿原神宮に参拝した。神島開きに当たって、橿原神宮に出口聖師が参拝されていたのを知っていた。
これらの三つの旅が重なると、自然に「神島開き」について考えるようになった。
〇神武天皇と出口聖師
大正五年の神島開きの経緯が「敷嶋新報」畝傍山の一と二(同年五月一日号)に記してある。それは、日本書紀の神武天皇東征の段そのままの記載から始まっている。
ところが、日本書紀の文面がそのまま載せてあるはずが、饒速日の名前が記載された部分だけがそっくり抜けていた。
厥の飛び降るという者は、是饒速日と謂うか。
何ぞ就きて都つくらざらむとのたまふ。
この箇所の意味は「塩土老翁が言う東の良い土地には、天から降った饒速日がいる。そこに都をつくろう」というもので、神武天皇の東征のきっかけに当たるところであるが、饒速日の名前が抜けている。抜けていることは日本書紀を見ればすぐわかる。すぐわかることをわざと隠すことは、あぶり出しのような強調効果がある。
では、なぜ饒速日を強調されたのか。それは、出口聖師ご自身が語っている【註1】ように、饒速日が出口聖師であるからではないだろうか。
もしそうであるとすれば、神武東征の時代に饒速日と現れた出口聖師【註2】は、神武天皇に刃向かう長髄彦を討ち、神武王朝の成立を助けたこととなる。
【註1】饒速日命は十種の神宝…をもらわれた。王仁は饒速日だ。十種の神宝は天の数歌…のこと (昭和十七年十一月十六日 桜井重雄氏拝聴) 〔『新月の光』上巻三四六頁〕
【註2】至仁至愛の大神は数百億年を経て今日に至るも、若返り若返りつつ今に宇宙一切の天地を守らせ給ひ 〔天祥地瑞 第七十三巻第一二章「水火の活動」〕
○神武天皇と国祖と天祖の親密さ
さて、日本書紀によれば、神武天皇は塩土老翁の勧めにより東の良き土地を目指して東征を開始し、また、饒速日の助けを得て朝廷を成立させる。
つまり、塩土老翁は結果的に神武天皇と饒速日を結びつける働きをしているが、出口聖師はこの塩土老翁は国祖国常立尊だと言われている【註3】。
また、古事記にもあるが、塩土老翁は神武天皇の祖父に当たる山幸彦(=彦火々出見命)を助け、龍宮に案内している。
なお、私は、今年七月の「沓島・冠島開き百二十年記念現地祭典」に参拝し、これを「大本講座『冠島・沓島開き120年』」でユーチューブにアップした。
この中で塩土老翁が案内した竜宮が沓島であること【註4】や、この塩土の翁は、王朝を成立させた神武天皇と饒速日を結びつける役目を果たしたことを説明している。
【註3】この翁の真の解釈は、国常立尊となるのであります (大正九年十月四日 五六七殿講演筆記 神武天皇御東征之段) 〔出口王仁三郎全集 第五巻二一九頁〕
【註4】大本七十年史上巻〔二○八頁〕
また「敷嶋新報」には、神島開きの大正五年が、神武天皇崩御の祭祀「神武天皇二千五百年祭」の年に当たり、また「大本開教二十五年」にも当たると記してある。
大正五年の辰年は…神武天皇二千五百年祭に當り給ふ、此年を以て開教二拾五年の春深玄なる御神慮の下に神軍の初参を遂げたり。
神武天皇は王朝を立てた現界の治世者であり、一方、国祖国常立尊は地上神界の主宰者として再出現されている。現界と地上神界双方の治世が、大正五年において、ちょうど「二十五」という共通の年回りで一致しているというのである。しかも、出口聖師が天のみろく様のご顕現であるということがわかる神島開きの年においてである。
この神武天皇と国祖国常立尊には共通することがさらにある。いずれも出口聖師の御霊を「助け人」としていることである。
出口聖師が自分だと言われた「饒速日」が神武天皇の王朝成立を助け、また、出口聖師としてご顕現される「天祖・みろくの大神」が、国祖神政の再現をお輔けになるのである。このように、神武天皇と国祖国常立尊、そしてこの両者を助ける出口聖師と顕現される天祖の三者の関係は、至って親密である。
加えて、神武天皇の母である玉依姫は、国祖国常立尊が冠島・竜宮島に納められた瑞の御魂・潮干の珠【註5】である。
また、大正十年辛酉の旧九月八日に、霊界物語口述の神示が出口聖師にあった。神島開きに関しても、第三回目の渡島で出口聖師が神宝を持ち帰られた日や第四回目の渡島のために綾部を発たれた日(旧暦)も、いずれも九月八日である。
このように、大本の重要な出来事は九月八日や辛酉など三革【註6】の年に起きるが、王朝成立も辛酉である。
なお、霊界物語を見ても、辛酉の九月八日に神素盞嗚大神と国祖国常立尊の分霊国武彦が由良の港の秋山館で会われ、翌九日、桶伏山で三十五万年後の再会を約されている【註7】。
またその三年後の甲子の九月八日、再び秋山館で神素盞嗚大神と国武彦が会われ、神武天皇の母の竜宮島の竜の宮居に鎮まる玉依姫から渡された麻邇の宝珠を迎えておられる【註8】。
【註5】霊界物語第一巻第三五章「一輪の秘密」
【註6】三革:暦の干支で天地の変動があるという年 革命(辛酉)・革令(甲子)・革運(戊辰)
【註7】霊界物語第十六巻第五章「秋山館」・第六章「石槍の雨」
【註8】霊界物語第二十六巻第一章「麻邇の玉」・第二章「真心の花〔一〕」
○出口聖師の橿原神宮参拝
三者のこうした密接な関係を背景とするなか、出口聖師は大正五年四月五日(旧三月三日)、神武天皇を祀る橿原神宮や畝傍山神社を参拝された。この折、出口聖師が、国祖のお筆先に出た「一つ島」【註9】は神島だと言われて、六月二十五日(旧五月二十五日)の神島開きに至っている。
このように、この際にも出口聖師や神武天皇、国祖の三者の関わりが見られる。
【註9】朝日のたださす夕日のひでらす高砂沖の一つ島一つ松松の根元に三千世界の宝いけおく 〔「高砂みやげ」村野竜洲『神霊界』大正六年一月一日号〕
ところで、橿原神宮の参拝について『敷島新報』にはこうある。
神界の御用も全く済まし得たり。祝詞の本文及び神務の次第は今は発表せざる可し。
祝詞や今回の御用の内容は発表しないとあるが、当時の参拝者の一人、内藤正照氏が出口聖師に聞かれたことを、徳重高嶺氏が昭和六年一月八日の日記に残している。
勅使が帰った後に、出口聖師と二十五名とが橿原神宮を参拝した折、聖師がくるりと回られてご神前を背にされたというのである。
礼拝 その折聖師様はくると神前にあとむきになり 何か話されたとの事 これは後にて承はれば国祖のしかくにておこし故 宮に鎮ってをきゝでなく 前にまわれて国祖のお言葉をきかれたからであると
〔徳重高嶺氏日記 昭和六年一月八日〕
橿原神宮に祀られている神武天皇の神霊が、国祖のお言葉を聞くために、お宮を出て、聖師の下座に回られ、また、聖師は国祖の資格で行かれたというのである。
○記紀神話の実在性
しかし、神武天皇に伝えられた国祖のお言葉を内藤氏は聞いていない。いくつか推測してみる。
◇自分は、三千年あまり陰から世界を守護してきて明治二十五年に復権した。そして天祖・みろく様の輔けを得て立替を実現することとなった。
◇出口聖師の霊が天のみろく様の御霊であり【註10】、かつて神武天皇を助けた饒速日は、出口聖師の現れであること。
◇皇室の先祖である天照大御神の三代の日子番能邇々芸命が御降臨し地球を治める以前は、伊邪那岐命に命じられて、出口聖師のお霊である素盞嗚尊が治めておられたこと【註11】。
こうしたことを国祖は神武天皇に伝えられ、かつて塩土老翁が、神武天皇と饒速日の間を取り持ったように、再び国祖が、神武天皇と出口聖師の間を取り持たれたのではないだろうか。
何を伝えられたか誰にもわからないことであるが、実は私にとってもっと大事なことがある。出口聖師が神武天皇に語られたことで、神武天皇の神霊が確かに存在することの証がなされたことである。
橿原神宮は、神武天皇が造った橿原宮があったという場所に、明治二十三年に創建されている。出口聖師の参拝はその二十六年後の大正五年であるが、確かに神武天皇の神霊は鎮まっているのである。先に述べた天祖と国祖と神武天皇の三者の親密な関係が、実在のこととして確信が持てるということである。
もとより、我々は、天御中主神や国常立尊など古事記や日本書紀に御神名の出て来る神々を信仰しているのであるが、社会一般には記紀の世界は、作り話の神話としか扱われていない【註12】。神武天皇の神霊の存在は、神話と言われる記紀の世界の実在性を大いに高めるものである。
【註10】みろくさまの霊はみな神島へ落ちておられて、坤の金神どの、素盞嗚尊と小松林の霊がみろくの神のおん霊で、結構なご用がさしてありたぞよ。みろくさまが根本の天のご先祖さまであるぞよ。国常立尊は地の先祖であるぞよ。 〔『大本神諭』大正五年旧九月九日〕
【註11】霊界物語第十二巻二八章「三柱の貴子」
【註12】戦後の史学界は、天孫降臨から神武東征という「神話」を、まったく架空の絵空事と切り捨てた。
〔関裕二著『神武東征の謎』PHP文庫 一九頁〕
○出口聖師の神島開きのお軸
徳重高嶺氏の日記の続きが、また興味深い。
それより畝び山に参り 土米をとりて大阪に帰る その折 武の内のすくね 神懸になり 神島をさがす事となる
まず、この畝傍山神社の土米は『敷嶋新報』にも記載がある。また、「神島ノート」(『大本教学』第十五号 出口三平氏)にも、大正六年五月の神島参拝の帰途、出口聖師が肝川に立ち寄られて、大量の土米を持ち帰られたことが記されている。
次に武内宿禰の神懸かりである。「大阪に帰る」「その折」とあるので、大阪に帰って出口聖師に武内宿禰の神懸かりがあり、神島探しが始まったということなのであろう。
実は、これに通じるような出口聖師のお軸を、私は目にしている。大阪の難波出張所で、出口聖師に武内宿禰の神がかりがあり、しかも日付から、神島開きの一連の動きの中で書かれたと思われるものである。
お軸は、一つ目の旅、平成二十八年七月二十四日、鳥取大山であった「世界平和祈願祭」に夫婦で参拝し、直会があった鳥取稲吉支部長の秋藤素美子さん宅にあった。
その後、このお軸が大本教学第十一号に取り上げてあることを知った。次のとおり読んであった。
大正五年五月十日
難波出張所神前にて
武内宿祢命王仁に
かかりてよめる
なにはかた神のみ船を漕ぎゆけば
日月輝く龍の宮居に 王仁
まず、大正五年五月十日という日付だが、今回私が参考にした神島開きに関した資料には出て来なかった。そこで、資料にある日付の中に五月十日を入れてみた。
〔神島関係年表〕
◇大正5年 (旧暦)
3・19 金竜海開掘工事竣工
4・5(3・3)聖師、橿原神宮、畝傍山に参拝
夜 難波分営で祝宴〔敷嶋新報〕
4・13 聖師の左頬より神島形玉石
《5・10》難波出張所神前で神懸かりのお軸
5・11 聖師、肝川へ〔大本略年表:愛善世界社〕
6・5(5・5)神島発見(村野・谷前氏)
6・25(5・25)神島開き・神霊を奉じて綾部竜宮館へ 渡島①
9・8 聖師、神島で神宝 渡島③
10・4(9・8)開祖、聖師一行神島へ
10・5(9・9)聖師がみろく様の筆先 渡島④
◇大正6年
5・25 聖師ら百余名、神島参拝
5・28 聖師、肝川で多量の土米〔神島ノート〕
先に、出口聖師が神島参拝の帰りに、肝川から土米を持ち帰られたことを記した。大正六年五月二十八日である。肝川は、現在の兵庫県川辺郡猪名川町にあるが、神島開きの活動範囲にある場所ということである。
この肝川に、出口聖師が大正五年五月十一日に行かれた記録があった。そうすると、前日十日に、出口聖師が難波出張所に行かれたとすることは可能である。また、神島発見の六月五日(旧五月五日)より前で不自然さはない。
次にお歌の意味である。『大本教学』第十一号で木庭次守氏は「陸の竜宮」と題して、次のとおり説明している。
みろ九の神の使神武内宿祢は…神地の高天原と定められた竜宮館の月日の神の神都へ導かれる神策を発表された
「日月輝く龍の宮居」について、「神地の高天原」とか「龍宮館」、「神都」とあるので、綾部の竜宮館を指しているのであろう。
確かに神諭にも、沓島・冠島開きにより、竜宮の乙姫の宝を綾部の「陸の龍宮館」に持ち運ぶ【註13】とのお示しもあり、「日月輝く龍の宮居」とは、綾部の竜宮館を指すと思われる。
ところで、歌の冒頭の「なにはかた」は地名であるが、残念ながら木庭氏は触れていない。
【註13】龍宮の乙姫殿が…海の底に溜めて置かれた御宝を、陸の龍宮館の高天原へ持遊びて
〔『伊都能売神諭』大正七年一二月二二日〕
○生國(いくくに)魂(たま)神社
さて、「なにはかた」について、「なには」は、難波・浪速・浪華と書き、大阪市およびその一帯の古称で、「難波潟」は大阪市付近の海の古称【註14】とあった。その語源は神武天皇東征にある。
難波の碕に到るときに奔き潮有りて太だ急きに会ひぬ。因りて名けて浪速の国とす。亦、浪花といふ。今難波といふは訛れるなり
〔『日本書紀』神武天皇東征の段〕
難波の碕に着こうとするとき、速い潮流があって大変速く着いた。よって名づけて浪速国とした。また、浪花という。今難波というのはなまったものである。
〔『日本書紀』全現代語訳 講談社学術文庫 宇治谷孟〕
ところで、出口聖師の初めての宣教は、「なには」たる大阪である【註15】。また、大正九年八月、宣教のため大阪梅田の大正日日新聞を買収され、大正十年二月十二日、第一次大本事件で出口聖師が拘引されたのもその本社である。
また、昭和八年十二月、『天祥地瑞』第七十七巻と七十八巻が口述されたのも大阪分院の蒼雲閣である。ちなみに第七十八巻には十二月二十三日の皇太子誕生の号外が付記されている。
このように出口聖師は大阪にとてもなじみが深いが、聖師は大阪市天王寺区にある生國魂神社によくお参りになられたという。
社伝によれば、神武天皇の東征の折、難波之碕に、神武天皇が国土の平定安泰を願って、大八洲(日本列島)の御神霊で国土の守護神である「生島大神・足島大神」を祀られたとある。
大地の神霊を厚く祭る神武天皇の信仰姿勢は、霊界物語にあるとおり「大地の神霊を金勝要神とし、大地の霊力を国治立命、また、大地の霊体の守護神を神須佐之男大神として祀る」【註17】ことにも通じている。また、国祖国常立尊が「日本の土地全体はすべて大神の御肉体」【註18】で、「地球世界の総守護神」【註19】であることにも通じる。
なお、生島大神の「生」や足島大神の「足」は、動物の本質・流体「生魂」や植物の本質・柔体「足魂」【註20】と関係するのではないか。
こう並べてみると、生國魂神社が出口聖師の教えにも通じる。こうしたことで、出口聖師がよくお参りになられていたのではないかとも考えられる。
【註14】旺文社 古語辞典
【註15】霊界物語第三十七巻第一三章「煙の都」
【註16】温故知新(二十七)大阪分院・蒼雲閣
〔『神の国』平成五年十月号〕
【註17】第十一巻第二四章「顕国宮」
【註18】第一巻第二一章「大地の修理固成」
【註19】第四巻第四五章「あゝ大変」
【註20】第六巻第一章「宇宙太元」
○なにはかた(難波潟)
生國魂神社の社伝に「難波の碕に」とあるので、大神を祀られた所は、当時、海である「なにはかた」(難波潟)に面していたのであろう。
神武天皇は、瀬戸内を海路で来て「なにはかた」に到着し、一旦畿内に上陸するものの退却して、再び「なにはかた」から海路で紀伊半島を大迂回している。そして、熊野から上陸して畿内へと向かい、饒速日が長髄彦を討って神武王朝が成立した。このように「なにはかた」は、神武天皇の東征において重要な位置を占めている。一方、お軸は、
なにはかた神のみ船を漕ぎゆけば
日月輝く龍の宮居に
とあり、素直に読めば、大阪の海「なにはかた」から「神のみ船」を「漕ぎゆけば」、綾部の「日月輝く龍の宮居に」至るとなる。だが、大阪から綾部は陸路なのでこれはおかしい。しかし、神島から船で出て「なにはかた」の海を漕いで、大阪を経て陸路で綾部に至るというのであれば、おかしくはない。
ただ、確かに経路も大事だが、「神島はどこにあるか」のお示しである。艮の金神は日本海の沓島に御隠退されたが、坤の金神は「なにはかた」のある瀬戸内海に御隠退されたというお示しとも考えられる。
出口聖師は、戦後、最後の御巡教で紀州に行かれた。帰りは陸路だが、行きは高血圧にもかかわらず、「紀州に行かねばご用のすまぬことがある」と言われ、昭和二十一年七月十六日、大阪から船で紀州に向かわれている【註21】。綾部からわざわざ大阪まで行かれ、「なにはかた」を出発して海路で熊野に至るという神武天皇と同様のルートをとっておられる。
このように「なにはかた」は、出口聖師と神武天皇の共通のキーワードとも考えられる。
【註21】大本七十年史下巻〔七五二~七五四頁〕
○神武天皇祭と国見山遙拝所
出口聖師は紀州御巡教と同じ昭和二十一年に、「ずっと以前に見た夢の山に寸分違いはない」【註22】と言われて、舞鶴市大丹生に行かれて冠島・沓島の遥拝所を定められた。行かれた日も神武天皇に関係しており、神武天皇崩御の祭祀「神武天皇祭」と同じ四月三日である。
また、出口聖師はこの遙拝所を「国見山」と命名されたが、これも神武天皇が即位後、「素晴らしい国を得た」と言って国を眺めた嗛間丘の別名「国見山」と同じである【註23】。
確かに、紀州への御巡教や遙拝所の命名等について、神武天皇との関係を聖師が明言したものを、私は目にしてはいない。
しかし、こうした御巡教や命名等は、これまで述べてきた天祖・出口聖師と国祖、神武天皇の三者の親密性の現れとも、また、明言がないのも、神島への四回目の渡島で、出口聖師がご自身のみろくの大神たる御神格を無言で皆に示された【註24】と同じく、無言のお示しとも考えられる。
なお、『敷嶋新報』の神島開きに関する記載は、日本書紀の神武天皇東征から始まっているが、その終わりもまた、日本書紀の神武天皇の歌で締めくくられている。
歌の意味は「粟(あは)の中にまじった一本のニラ(かみら)を抜き取るように、敵の軍勢を打ち破ろう」というものである。長髄彦に命を奪われた兄の五瀬命の仇をとりたいという神武天皇の無念さに出口聖師も同情されているのではなかろうか。
【註22】『愛善苑』第三号〔昭和二一年七月一日一四頁〕
【註23】通証は本馬即ち嗛間の転とし、本馬山の
南に位する国見山を嗛間丘とする。
〔日本書紀(一)岩波文庫 校注二四三〕
【註24】出口聖師は綾部出発より四日間沈黙。
〔後記〕
神島開きと神武天皇に関する資料の断片をつなぎ合わせて、私なりに推測しながら文章を作成してみた。漠としたものだが、一定の雰囲気は醸し出せたように思う。
また、出口聖師のお軸が『大本教学』にあることを教えていただいた出口三平さん、生國魂神社など大阪市内の出口聖師ゆかりの場所を案内していただいた北川雄二さんと成瀬昭さん、また、敷嶋新報や徳重高嶺氏の日記などの資料を提供していただいた愛善荘の皆さんに、この場をお借りして心からお礼を申し上げたい。ご協力によりこの文章を書くことができた。
最後に、妻を祭典などに連れて行くためにしたことなどを少し。
一つ目の旅、大山「世界平和祈願祭」に連れて行くため、出口聖師が霊界物語の口述をされた皆生温泉に前泊した。この旅で出会ったお軸が今回の文章のきっかけとなった
二つ目の旅、大阪分苑春季大祭では、前日に京都の観光を入れ、清水寺から産寧坂(三年坂)、高台寺のルートを歩いて大阪梅田に宿泊した。ただ、妻は大祭には参拝せず、西の宮の娘と過ごした。この旅で生國魂神社を参拝し、出口聖師と神武天皇との関係に関心を持った。
三つ目の旅、妻の膵臓がんの精密検査を控え、以前から決まっていた西宮の娘の家に行く前に、奈良の吉野と橿原神宮に行った。出口聖師が行かれたところで、前から行っておきたかった。また、食欲がずっとなかった妻が、名物の柿の葉寿司を一人前食べたのは吉野の山の御神徳だったと思う。この旅がなければ、今回の文章は書けなかった。
妻が、六十歳で逝ってしまうとは思いもしなかったが、未信徒の家から嫁いで来て、大本関係のところをひととおり連れて行った。今回の文章が書けたのも妻がついて来てくれたおかげである。これで、妻から出された宿題が済んだように思う。
(令2・8・30記)
〔『愛善世界』令和3年4月号掲載〕
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