⑤現界と天界とのつながり

「愛善世界」誌掲載文等

 我々の住むこの現界と死後に行く霊界、特に天界とのつながりについて、話を三つまとめてみた。

◆臨死体験と信仰

 私は臨死体験をされた方から、直接お話を聞いたことがある。

 大阪府の岩川千代子さんという方に、平成二十年十一月、第三回霊界物語フェスティバーロの高熊山での祭典からの帰りのバスでお話を聞いた。その折、手記(「叙勲」平成二十年十一月十五日)もいただいた。

 「私は、幽体離脱して上昇し、そして羽毛の揺りかごのような純白の雲に包まれながら、歓喜の中を漂い」               

 また、その前年の第二回目のフェスティバーロで聖心女子大学教授であった鈴木秀子さんの講演も聞いたが、著作(『臨死体験 生命(いのち)の響き』)にこうある。

 「一瞬のうちに高さの極みに飛翔し、それまでに見たことがないような美しい光に包みこまれました。そこは、白っぽい金色の輝きに満ちた、一面の光の世界でした。(略)これこそ至福の境地なのだ。完全な自由なのだ」

 このようにお二方とも、上昇の折、白い雲や光に包まれて幸福感の中におられる。同様に、人が天国に上る時には、瑞雲に包まれ幸福感の中にあることが、「(たま)(いしずゑ)(八)」(霊界物語第二十三巻)に示してある。

 「極善の人間にして死後(ただち)に天国に(のぼ)り行く時は、(略)死後(たちま)ち五色の光彩を放射せる瑞雲に身辺を包まれて上天(しやうてん)するのもある。その時の気分といふものは何んとも言語に尽せないやうな、平和と閑寂と歓喜とに充ち、幸福の極点に達したるの感覚を摂受するものである」

 このお二方のような臨死体験をされた事例から、我々は御教えのお示しを現実のものとして確信することができる。

 ところで、極善の者は、このように死後、中有界を経ず直ちに天国に上るとのことであるが、これは「()く神を信じ、神を愛する者」だということが、このお示しの続きにある。

 岩川さんは幼いころから、不思議と素盞嗚尊と関係があると語られていた。また、鈴木さんも敬虔なクリスチャンである。我々も、大いに主の大神さまへの信仰に励みたいものである。

 

◆黄金時代への復帰

 時代というものは、太古の黄金時代から始まっており、その後、白銀時代、赤銅(せきどう)時代を経て黒鉄時代となり、現在は、堕落した泥土世界、善も真も影を没した暗黒無明の地獄となったと示してある。(第四十七巻第二十一章「跋文」)

 そして、今回のご神業は、「常暗(とこやみ)の世をして最初の黄金世界に復帰せしむる」(入蒙記第二章「神示の経綸」)ものとされている。また、その黄金時代には、現界人と天人とが直接交わっていたということである。

 「太古に於ける現世界の住民は何れも、清浄無垢にして、智慧証覚にすぐれ、愛の善と信の真をよく体得し、直接天人と交はり、霊界も現界も合せ鏡の如く、実に明かな荘厳な世界であつた」

(入蒙記第二章「神示の経綸」)

 ところで、この天人は、元々天国にいたのではなく、現界に生まれて後、天国に上った人間であるというのである。

 「人間は現界の生を終へ天国に復活し、現界人と相似せる生涯を永遠に送り、天国の円満をして益々円満ならしむべく活動せしむる為に、大神の目的に依つて造りなされたものである。

 故に高天原に於ける天国及び霊国の天人は一人として人間より来らないものはない。大神様を除く外、一個の天人たりとも天国に於て生れたものはないのである」         (第四十八巻第一二章「西王母」)

 そうして我々が昇天した後には、天人の団体に入り、ご神業に参加するよう大神さまは望まれている。

 「願はくは此物語に心を潜めて神の大御心のある所を会得し且つ相応の真理を覚り、現界に於ては万民を善道に救ひ、死後は必ず天界に上り天人の班に相伍(あひご)して神業に参加せられむことを希望いたします」                  (第四十七巻第二一章「跋文」)

 つまり、黄金時代に復帰するという今回のご神業は、我々が、現界においては天人と、また死後天人となってからは現界の人間と直接交わり、まさに現界と天界が合わせ鏡のように一体となって進めていくものだということである。

 昇天後もこうしたご神業に参加するため、我々は現界において、大神さまのご神格である「愛の善と信の真」をよく体得しておきたいものである。

◆霊祭の必要性

第五十八巻第二十四章「礼祭」での、霊祭の必要性についての三千彦と玉国別の問答は面白い。

まず、天界に上った先祖への霊祭の必要性が説いてある。

三千「先生、人間は現世を去つて霊界へ行つた時は、極善者の霊身は直ちに天国に上りて、天人と相伍し天国の生活を営み、現界との連絡が切れるとすれば、現界にある子孫は父祖の霊祭などをする必要がないもののやうに思はれますが、それでも祖霊祭を()なくてはならないのでせうか」

玉国「なにほど天国へいつて地上現人との連絡が断たれたといつても、愛の善と信の真とは天地に貫通して少しも遅滞せないものである。(略)天国にあつてもやはり衣食住の必要がある。子孫の真心よりする供物や祭典は、霊界にあるものをして歓喜せしめ、かつその子孫の幸福を守らしむるものである」

次に、中有界から現世に再生した先祖、また、地獄へ落ちた先祖への霊祭の必要性である。

三千「中有界にある精霊は、なにほど遅くても三十年以上ゐないといふ教を聞きましたが、その精霊が現世に再生して人間と生れた以上は、祖霊祭の必要はないやうですが」

玉国『現世に生れてゐながら、なほかつ依然として霊祭を厳重に行うてもらうてゐる現人は、日々の生活上においても、大変な幸福を味はふことになるのである。(略) 地獄に落ちた祖霊などは、子孫の祭祀の善徳によつて、たちまち中有界に昇り進んで天国に上ることを得るものである。

また子孫が祭祀を厚くしてくれる天人は、天国においても極めて安逸な生涯を送り得られ、その天人が歓喜の余波は必ず子孫に自然に伝はり、子孫の繁栄を守るものである。

なんとなれば愛の善と信の真は天人の神格と現人(子孫)の人格とに内流して、どこまでも断絶せないからである」

 つまり、主の大神さまのご神格である「愛の善と真の信」によって天地が満たされ、また、そのご神格の中で、祖先も我々も永遠に生きているということである。

 また、ここで思い浮かぶのが()(れい)(はい)()の「夜の守り日の守りに守り幸はへうづなひ給ひ」である。これはつまり、霊祭を受けた天人の歓喜によって、現界の我々もまた守られるということである。我々は、祖霊への霊祭とまた日々のお礼拝も心をこめて行ってまいりたいものである。

 真の信仰とは、神を信じるとともに「死後の生涯を固く信じ」ることだとある(第四十七巻第九章「愛と信」)が、今回、現界と天界とは一体的につながっているという話をまとめてみたことが、その理解に役立った。

(追記)先日、私の短歌の友でもあった大本山口本苑の信者さんが帰幽された。天国へ復活されたと固く信じつつも、やはり寂しい。

 「(はなし)して気が晴れたよ」と聞きたるが最後の電話短歌(うた)の友逝く

 吾の弾く八雲の琴の音に乗りて天津御国へ君上るらむ                                                              

(平27・3・2記)
〔『愛善世界』平成28年2月号掲載〕

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