(51) 天の岩戸開きを考える(その二)

「愛善世界」誌掲載文等

○「火水(かみ)の戦い」か?

出口和明著『大地の母』に「()()の戦い」という言葉が出て来る【註1】。

「直と鬼三郎にかかる神霊同士の争いを、役員信者たちは「()()の戦い」と呼んだ…まさに竜虎あいうつ…火水の戦いが熾烈になるほど、直を生き神と信じる役員信者たちは、一段と会長批判を強めた」

出口和明著『大地の母』

 この「()()の戦い」という言葉は、霊界物語や大本神諭、また当時のことを詠んだ歌集「百千鳥」、さらに大本七十年史にも出て来ない。『大地の母』は小説であるので著者の自由ではあるが、「()()の戦い」があたかも、「大本用語」のような扱いを受けているのも事実である。

 しかし、前述の『大地の母』の文章をよく読むと、著者自身がこの言葉の誤りを訴えているように思える。…当時、開祖様をはじめ役員信者たちは、出口聖師の御神格が天のみろく様であること【註2】がわからなかった。真実がわからない役員信者たちが言う「()()の戦い」という言葉が、正しい訳がない…と。

出口聖師と二代様がご結婚のころ

【註1】いづとみづ昭和58年5月5日発行『大地の母』中の巻 第十二篇火水の戦「撫子の花」(四九五頁)

【註2】「国祖へ下し玉いたる神勅を実行すべく、撞の大神は地上に降臨せられ」(大正七年一月五日「太古の神の因縁」)

○水火は一体的

霊界物語には「水火」を用いた章名が二つある。入蒙記(一章)「(すゐ)(くわ)訓」と天祥地瑞(七十三巻一二章)「(すゐ)(くわ)の活動」である。

まず、入蒙記の「水火訓」では、水と火が洗礼という表現で使われている。(みづ)の洗礼は「体主霊従といって、現界人の行為を主とし、死後の霊界を従となして説き初めた教え」で、開祖様によるお筆先や釈迦、キリスト、マホメット等により伝達されたもの。一方、火の洗礼は「霊主体従的神業であつて、霊界を主となし、現界を従となしたる教理」と示されている。

水、火いずれの洗礼に偏するも正鵠(せいかう)を得たものではないが、今までの水洗礼の教理では、安心立命を得ることができなくなったので、火の洗礼たる霊界の消息を説くに至ったとある。

「水洗礼たる今迄の予言者や救世主の教理を以ては…安心立命を心から()ることが出来なくなつた…火の洗礼たる霊界の消息を最も適確に如実に顕彰して、世界人類を覚醒せしむる必要…言霊別の精霊を地上の予言者の(からだ)(くだ)された」(入蒙記一章「水火訓」)

また、天祥地瑞の「水火の活動」では、火は水がなければ燃えず、水もまた火の力がなければ流動できず、天界は、大太陽と大太陰の火水の調節で万有の栄を見るに至ったとある。また、大太陽には厳の御霊が、大太陰には瑞の御霊がそれぞれ鎮まり、二神が接合して至仁至愛(みろく)神政を樹立される神の名を()()()(めの)(かみ)と言い、さらに()()()(めの)(かみ)は瑞の御霊となり【註3】、現身(うつせみ)をもって神業に尽くすとある。

「紫微天界の(かい)(びやく)より数億万年の今日に至りていよいよ伊都能売神と顕現し、大宇宙の中心たる現代の地球(仮に地球といふ)の()()()()に現れ、(うつ)(せみ)をもちて、宇宙更生の()(わざ)に尽し給ふ世とはなれり」(七十三巻一二章「水火の活動」)

これら二章で示された火と水は互いに補完し合う一体的なもので、けっして戦い合うものではない。また、常に瑞霊が厳霊を包み込んでおり、これは、厳霊たる国祖の大神が、瑞霊のみろくの大神たる天祖の大神を、救いの神と(たの)む大本出現の基本神観に合致したものとなっている。

ところで、天祥地瑞の「水火の活動」には、

「瑞の御霊…更生の()(わざ)を依さし給ふべく肉の宮居に降りて…迫害と嘲笑との中に終始一貫尽し給ふ」

との表現もある。肉体を持った瑞霊が迫害と嘲笑の中、神業に尽くされているというのは、国からの弾圧のみならず、出口聖師が当時の役員から受けたご苦労も含むように思われる。

なお、大本七十年史(下巻二四四・二五五頁)に、開祖と出口聖師の対立に関する記載がある。『大地の母』著作のもととなっているのではないか。

「弥仙山ごもりは、開祖と会長の対立の決定的な局面を示す行動であった…開祖と会長が神懸り状態となると、たがいに雄叫びして激しい様相となる」

この弥仙山ごもりについて、私はかつて「『愛善世界』誌への投稿十年目―弥仙山岩戸開きを考える―(『愛善世界』誌令和五年七月号)」で触れている。

出口聖師が書かれた「弥仙山」(明三六・九・二七)には組み込まれた文章があり、

出口聖師「弥仙山」 開祖様の岩戸こもりの真実が組み込まれている。

「弥仙山岩戸こもりの一件は、天のみろく様として、出口聖師が開祖様の信仰姿勢を注意したところ、怒って他国に行こうとされた開祖様をなだめて、弥仙山の自らの懐で、親が子をみるように保護をされたということではないか」(四三・四四頁)

とまとめてみた。出口聖師の雄叫びは、天のみろく様としての開祖様への注意であり、なだめの言葉である。けっして「戦い」ではない。

【註3】「()()(いづ)にして火なり、()()は水力、水の力なり、水は又(みづ)の活用を起して(ここ)に瑞の御霊となり給ふ」(七十三巻一二章「水火の活動」)

○天照大御神の岩戸がくれの発端

古事記にある天の岩戸開きの物語は、天照大御神の岩戸がくれから始まる。その発端がこうある。

(はや)須佐之男命、()させし國を()らさすて…啼きいさちき…()(はは)の國根の(かた)()(くに)(まか)らむと(おも)ふ。(かれ)()くなり」(古事記上つ巻)

素盞嗚命は、伊邪那岐大御神から命じられた大海原の統治をせず、母の国に行くと言って泣いているというのだが、その理由は不明である。だが、霊界物語にはその理由が示してある。

本稿(その一)の最後で、天照大御神が素盞嗚尊の領土を奪おうとされていることを述べた。

「姉神様は地教山も、黄金山も、コーカス山も全部自分のものにしようと遊ばして、種々と画策をめぐらされる」(十二巻二五章「琴平丸」)

実は、この後に次の文章が続く。

「弟神様も姉に敵対もならず、進退(これ)(きは)まつて此地の上を棄てて月の世界へ行かうと遊ばし」(十二巻二五章「琴平丸」)

姉の天照大御神の領土拡張行為に困り果て、やむを得ず、素盞嗚尊は母の国に行きたいと言わざるを得なかったのである。ここにおいても瑞霊は厳霊と戦ってはいない。

〔令和5年7月25日 記〕

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