○「火水(かみ)の戦い」か?
出口和明著『大地の母』に「火水の戦い」という言葉が出て来る【註1】。
「直と鬼三郎にかかる神霊同士の争いを、役員信者たちは「火水の戦い」と呼んだ…まさに竜虎あいうつ…火水の戦いが熾烈になるほど、直を生き神と信じる役員信者たちは、一段と会長批判を強めた」
この「火水の戦い」という言葉は、霊界物語や大本神諭、また当時のことを詠んだ歌集「百千鳥」、さらに大本七十年史にも出て来ない。『大地の母』は小説であるので著者の自由ではあるが、「火水の戦い」があたかも、「大本用語」のような扱いを受けているのも事実である。
しかし、前述の『大地の母』の文章をよく読むと、著者自身がこの言葉の誤りを訴えているように思える。…当時、開祖様をはじめ役員信者たちは、出口聖師の御神格が天のみろく様であること【註2】がわからなかった。真実がわからない役員信者たちが言う「火水の戦い」という言葉が、正しい訳がない…と。
【註1】いづとみづ昭和58年5月5日発行『大地の母』中の巻 第十二篇火水の戦「撫子の花」(四九五頁)
【註2】「国祖へ下し玉いたる神勅を実行すべく、撞の大神は地上に降臨せられ」(大正七年一月五日「太古の神の因縁」)
○水火は一体的
霊界物語には「水火」を用いた章名が二つある。入蒙記(一章)「水火訓」と天祥地瑞(七十三巻一二章)「水火の活動」である。
まず、入蒙記の「水火訓」では、水と火が洗礼という表現で使われている。水の洗礼は「体主霊従といって、現界人の行為を主とし、死後の霊界を従となして説き初めた教え」で、開祖様によるお筆先や釈迦、キリスト、マホメット等により伝達されたもの。一方、火の洗礼は「霊主体従的神業であつて、霊界を主となし、現界を従となしたる教理」と示されている。
水、火いずれの洗礼に偏するも正鵠を得たものではないが、今までの水洗礼の教理では、安心立命を得ることができなくなったので、火の洗礼たる霊界の消息を説くに至ったとある。
「水洗礼たる今迄の予言者や救世主の教理を以ては…安心立命を心から得ることが出来なくなつた…火の洗礼たる霊界の消息を最も適確に如実に顕彰して、世界人類を覚醒せしむる必要…言霊別の精霊を地上の予言者の体に降された」(入蒙記一章「水火訓」)
また、天祥地瑞の「水火の活動」では、火は水がなければ燃えず、水もまた火の力がなければ流動できず、天界は、大太陽と大太陰の火水の調節で万有の栄を見るに至ったとある。また、大太陽には厳の御霊が、大太陰には瑞の御霊がそれぞれ鎮まり、二神が接合して至仁至愛神政を樹立される神の名を伊都能売神と言い、さらに伊都能売神は瑞の御霊となり【註3】、現身をもって神業に尽くすとある。
「紫微天界の開闢より数億万年の今日に至りていよいよ伊都能売神と顕現し、大宇宙の中心たる現代の地球(仮に地球といふ)の真秀良場に現れ、現身をもちて、宇宙更生の神業に尽し給ふ世とはなれり」(七十三巻一二章「水火の活動」)
これら二章で示された火と水は互いに補完し合う一体的なもので、けっして戦い合うものではない。また、常に瑞霊が厳霊を包み込んでおり、これは、厳霊たる国祖の大神が、瑞霊のみろくの大神たる天祖の大神を、救いの神と恃む大本出現の基本神観に合致したものとなっている。
ところで、天祥地瑞の「水火の活動」には、
「瑞の御霊…更生の神業を依さし給ふべく肉の宮居に降りて…迫害と嘲笑との中に終始一貫尽し給ふ」
との表現もある。肉体を持った瑞霊が迫害と嘲笑の中、神業に尽くされているというのは、国からの弾圧のみならず、出口聖師が当時の役員から受けたご苦労も含むように思われる。
なお、大本七十年史(下巻二四四・二五五頁)に、開祖と出口聖師の対立に関する記載がある。『大地の母』著作のもととなっているのではないか。
「弥仙山ごもりは、開祖と会長の対立の決定的な局面を示す行動であった…開祖と会長が神懸り状態となると、たがいに雄叫びして激しい様相となる」
この弥仙山ごもりについて、私はかつて「『愛善世界』誌への投稿十年目―弥仙山岩戸開きを考える―(『愛善世界』誌令和五年七月号)」で触れている。
出口聖師が書かれた「弥仙山」(明三六・九・二七)には組み込まれた文章があり、
「弥仙山岩戸こもりの一件は、天のみろく様として、出口聖師が開祖様の信仰姿勢を注意したところ、怒って他国に行こうとされた開祖様をなだめて、弥仙山の自らの懐で、親が子をみるように保護をされたということではないか」(四三・四四頁)
とまとめてみた。出口聖師の雄叫びは、天のみろく様としての開祖様への注意であり、なだめの言葉である。けっして「戦い」ではない。
【註3】「伊都は厳にして火なり、能売は水力、水の力なり、水は又瑞の活用を起して茲に瑞の御霊となり給ふ」(七十三巻一二章「水火の活動」)
○天照大御神の岩戸がくれの発端
古事記にある天の岩戸開きの物語は、天照大御神の岩戸がくれから始まる。その発端がこうある。
「速須佐之男命、命させし國を治らさすて…啼きいさちき…僕は妣の國根の堅州國に罷らむと欲ふ。故、哭くなり」(古事記上つ巻)
素盞嗚命は、伊邪那岐大御神から命じられた大海原の統治をせず、母の国に行くと言って泣いているというのだが、その理由は不明である。だが、霊界物語にはその理由が示してある。
本稿(その一)の最後で、天照大御神が素盞嗚尊の領土を奪おうとされていることを述べた。
「姉神様は地教山も、黄金山も、コーカス山も全部自分のものにしようと遊ばして、種々と画策をめぐらされる」(十二巻二五章「琴平丸」)
実は、この後に次の文章が続く。
「弟神様も姉に敵対もならず、進退維れ谷まつて此地の上を棄てて月の世界へ行かうと遊ばし」(十二巻二五章「琴平丸」)
姉の天照大御神の領土拡張行為に困り果て、やむを得ず、素盞嗚尊は母の国に行きたいと言わざるを得なかったのである。ここにおいても瑞霊は厳霊と戦ってはいない。
〔令和5年7月25日 記〕
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