震災地慰霊祭を草野一也さんに聞く
東日本大震災の被災地を回って、三年前から慰霊祭を続けておられるいわき市の草野一也さんに、ご自身の特異な体験も混じえ、慰霊祭についていろいろとお聞きした。
お聞きしたのは、平成二十八年三月十一日、福島県相馬市での震災犠牲者慰霊の五年祭の会場。
― 震災が起きたときはどちらに。
草野 大熊町がふるさとで、避難地区のまっただ中。一旦、三春に避難して、息子のいる相馬に十日間。それから娘のいる横浜に半年。それから現在のいわき市の仮設住宅へ。自分は会社をやっていて、親会社がいわき市に来たので、ぜひ仕事をやってくれということで、仮設住宅の四畳半の中で仕事をしていた。寝起きいっしょで。
― 慰霊祭は、いつごろから、どういうきっかけで始められたか。
草野 震災二年目の平成二十五年ごろから。東海本苑から震災の慰霊祭の話があって始めた。
― 最初はどこから。
草野 最初は岩手県宮古市から。遠い所から下って来た。上るのは大変だから。慰霊祭は、私と弟と菊地さんの三人で月一回、第三日曜日にやっている。去年の十月、弟と菊池さんが、青森県からやっている。
― その次の慰霊祭の場所は、何キロおきとか。
草野 何キロおきとか決めていない。宮古まで四百キロあるが、宮古でもいろいろ山田地区とか、大月町とか、特に被害が大きかったところを中心に。海岸沿いがほとんどで、今はもうほんとに更地になっている。青森はあんまり被害がない。一番ひどいのは岩手。盛岡も大変だった。
― 片道四百キロ、往復八百キロになるが。
草野 今、岩手に行くのに、会津若松で一泊して朝三時に出かける。帰りは夜九時、十時。片道八時間以上かかる。高速はいいのだが、一般道になってからこれがもう大変。山越えしなければならず、そして、海にまた下がらなければならない。
祭典では一度も雨が降らず
― 慰霊祭ができそうな場所はどうやって。
草野 いちおうナビで調べて行く。今は復興もかなり進み、堤防ができている。しかし、海が見えるとか、ああ、ここがいいとか、慰霊祭ができる場所が必ず一か所見つかる。不思議に。
それと、二十五年から慰霊祭が始まって、雨に一回も遭っていない。途中まで降っているが、現地に行くとぴたっと止む。先月もそうだった。朝三時に起きて、出だしは小雨。「あ、雨だ」。そして岩手に行くからどんどん寒くなるし。「あ、みぞれになってきた」。そのうち、「あ、雪になっちゃった」。雪になって現場に行ったら、太陽がぼーんと。不思議。
― 車に祭壇があったとお聞きしているが。
草野 東海本苑が作った小さい祭壇をお借りしている。
― 祭典は。
草野 普通の慰霊祭と同じ。また、その地区地区の産土の神様にも降りていただく。お祭は一時間かかる。ごまかしができないし。
― 霊さまの招魂では、どのように。
草野 「大震災、大きい波にもまれ、亡くなられた霊さんたち」と言う。「たち」となれば全部入る。
― 神饌ものも持って行かれるのか。
草野 持って行く。最初のころは向こうの地元で買っていたが、時間がかかっていた。町に行って、また下がって来なければいけない。
霊的体験と霊(みたま)の御救い
― 祭典のなかで何か変わったこと、特異なことはないか。
草野 現地に着く三十分前くらいから、自分の体にいろんなことがある。足がちょっと重くなって、祭典中にはもう腰も重くなってくる感じ。しかし、祭典が終わった時点ですうっと元に戻る。
霊さんたちは、私たちが来るというのがわかっているのではないか。慰霊祭に来れば、救ってもらえるというのがあるのではないか。
― もともと草野さんは、昔から霊的な感受性が強い方か。以前、震災の時に支部の袚戸さんの神籬や大麻が動かなかったというお話を聞いたが、その時点ではそういう感覚はなかったか。
草野 なかった。慰霊祭を始めるようになってから。
― 日常生活のなかでは。
草野 日常の生活ではあんまりない。慰霊祭に行くたびにある。
― 弟さんや菊池さんにもそういう感覚があるか。
草野 ない。受けてもらうと私も助かるが。しかし、菊池さんも最近、祭典中にすごい涙を流す。ありがとうという答えを出してくれているのか。
― 終わればそういう感覚はさっと消えてしまう。
草野 天津御国に帰られたかなと受け取っている。
― 初めと比べて体験に変化があるか。場所によっても違うとか。
草野 もちろん、場所によっても違う。受けるのは強くなってきている。宮古の方では亡くなった方が千二、三百人くらい。そうした方たちが来ると、体が重くなる。逆に、亡くなった方が少ない所は体の負担が少ないので、二か所を一回でやるときもある。行ってみないとわからないが。
― やっぱり被害の大きかったところが。
草野 被害の大きいところがきつい。今月は釜石、そこも千人超。そこを終わると大船渡。その次が陸前高田。ここがまた大きい。
― 陸前高田はテレビでよく出たりする。
草野 そこはまた、かなりきついのではないか。
― きついからやめるというわけにはいかないのか。
草野 それはもうできない。雨が降っていても、現地に行くとぴたっと止むから不思議。
この前は、かなり風も強かったが、車の方にはあまり風は来なくて、海の方はかなり白波が立っていた。ああ、風も向こうに行ってくれたなと。
― 霊さんが、やっぱり救われていない状態。
草野 だから来るのだろう。
― 亡くなれば、中有界や天国、あるいは地獄に行くが、慰霊のときには、霊さんが寄って来るということか。
草野 寄って来るのだろう。「ただいまから慰霊祭を始めますので、ここで亡くなられた霊さんたち、ご参拝をお願いします。みんなで天津御国に帰りましょう。ふるさとに帰りましょう」と祭典の始まる前に声をかける。そうすると、ばんばんばんと来るのだろう、体にぐぐぐと来る。あああと。そんな感じでやっている。
来年八月まで
― 慰霊祭の計画はいつまで。
草野 来年の八月まで。今年いっぱいで終わるかなと思ったが、終わらない。
― 慰霊祭を三年余りされることになる。心臓のお具合も悪くなられたと聞いたが、以前からか。
草野 前は病気はしていなかった。震災になってから。ストレスもあったと思う。心臓のバイパス手術が三回。ステントも五本入っている。
― 霊さんが待っててくだされば、行かざるを得ない。神様からのお役目という。
草野 東北に御用がいっぱい残っているのではないか。
― 慰霊をされ、霊さんが救われていく。
草野 それが何より。
― 来年八月で一区切りということで。
草野 大熊町、福島第一原発で区切り。そこまでは東北の方。そこが境になる。そこを過ぎるといわきの方。そこで切らないと、またずずずずと行ってしまう。私はそこでもう終わりにしようと思う。
(後記)
これまで十か所くらいで慰霊祭をされ、最終的には三十か所ほどになるとのことであった。お年をお尋ねした。いくつに見えますかと言われるので、七十五歳とお答えしたら七十六歳と言われた。お別れのご挨拶に握手をさせていただいたが、その手がとてもやわらかかった。
(平28・3・21記)
〔『愛善世界』平成28年9月号掲載〕
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